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RIGHT:&size(16){GG Lab.}; &size(11){by [[GGAO>http://www.ggao.info]]};
~
*Atlas of Emotion&size(17){:Journeys in Art, Architecture, and Filmのメモ}; [#y0c5ce69]
~
~
#ref(Atlas_of_emotion.jpg,nolink,left,around);
ジュリアーナ・ブルーノ(Giuliana Bruno)著
Verso Books; illustrated edition版 (2007/5/28)
ISBN-13: 978-1859841334
#clear
~
#contents
~
**1 Site-Seeing: The Cine City [#e513a587]
-p. 15.
--間違い(Error)は確定した道筋からの逸脱(departure)を仄めかす。その用語の意味は間違えること、あるいは彷徨うことという考えを組み入れている。間違い──ルートからはずれること、原理からの逸脱──はこのような彷徨に結び付けられている。曲がりくねったコースを航行するとき、それは放浪、徘徊、そして行方不明すら仄めかす。
-'''アトラス'''──理論的で情'''動'''的な旅程(itinerary)の地図──は'''errare((イタリア語で、「さまよう、間違える」の意味))'''として発展してきた。何年にもわたって紡がれることで、それはパリンプセストという肌理のある層を持っている。

***PANORAMAS OF MODERNIY [#mdbfd99a]
-p.16.
--「この歴史家の方法の中核にある可動性……知識は、旅行に依存する、境界を尊重することを拒否する姿勢に依存する、周辺に向け絶えず進むことに依存している。」(([[スティーヴン・グリーンブラット>WikiPedia.ja:スティーヴン・グリーンブラット]]『驚異と占有』 みすず書房 1994))

***A LABORATORY OF CITY FILMS [#a0b1e087]
-p. 24.
--映画は分析的な“サイボーグ”である。それはエックス線と近縁関係にあり、身体の痕跡を解剖することができる。
***UNHOMELY CITY VEIWS [#dff36bd1]
-p. 31.
--夢の中を別とすれば、それぞれの都市においてほど境界という現象がそれ本来の姿で経験される場所はほかにない。(C3,3)((ベンヤミン『パサージュ論』第1巻 岩波書店))

**2 A Geography of the Miving Image [#dc560b81]
***FILMIC AND ARCHITECTURAL PROMNADES [#r9fa24f7]
-p. 58.
--【アクロポリスの丘では】動き回る見物人(viewer)の目の前で、多様な光景と“ピクチャレスクな場面”が映し出される。非対称の眺めのスペクタクルは動的に作り出される。実際、アクロポリスは空間の居住者を眺めの消費者へと変える。都市空間はまた、多くの場合建築的シークエンスと地形の連結において、このようなスペクタクルを作り出すかもしれない。このようにして建築的集合は常に展開しながら観客(spectacular)に機会を供給し、そして訪問者(visitor)を全く文字通りに映画の見物人(viewer)にする。

**5 The Architecture of the Interior[#g5c45f75]
-p. 133.
[[Xavier de Maistre>WikiPedia.en:Xavier de Maistre]](グザヴィエ・ドゥ・メストレ) (1763-1852)
フランスの作家「Voyage around my room(1794)」

-p. 133.
驚異の部屋(a cabinet of curiosity)、viewing box、Journy in  box、パンドラの箱
→ 女性、女性の好奇心、旅行のこと、情動の地形(emotional topographies)

-pp. 133-134.
Sala Femenina→バルセロナのマーレー美術館にある彫刻家フレデリック・マーレーによって集められたのコレクションが置いてある部屋。センチメンタルミュージアムと名づけられている。もはや役に立たなくなった日常の陳腐なもの(切符、アクセサリー、メニュー、傘、パイプ、時計、レンズ、[[扇(fan)>GG_img:Atlas of emotion&openfile=salafemenina.jpg]]、……)がコレクションされている。
--この部屋は墓のようになっている。
--日常の地形を描いている。
--女性の空間の周りを旅する、Sala Femeninaそれ自体が動いている→[[スーツケース>GG_img:Atlas of emotion&openfile=suitCase_Studies_1991_diller_scofidio.jpg]]
--スーツケース
---ホテルのスタンプ、訪れた都市のもので飾られている
---旅行者の物語を語る
---それは部屋のように、記憶のコレクションである。
--生きられた空間のフィクションという意味で、映画(motion picture)はそこに自らの空間を見出す。

-p. 135.
--映画は動きの原理を自身に含んだ魅惑的なイメージを持つ美学的、科学的おもちゃという点で自動人形に近い。
--このような動きは身体運動を分析し解剖する。機械化された運動が感覚感情を再生産する場は身体-機械の家においてである。映画は現代の自動人形である。
--film bodyは(想像の)空間や心理的地形を精査する。(film body:カメラのボディのように映像を受容し、生成する機器ように、映像を知覚する身体のこと?)

***"SHOOTING" ALONG HISTORY [#b63d5449]
-p. 136.
--身体を動きの中で捉える科学的、医学的な注視(gaze)がfilm bodyの領域を形成し、またマイブリッジやマレーらによる実験的光景において、film bodyの出現を形成した。

***A GEOGRAPHY OF FILMIC ARCHAEOLOGY [#bb25d30e]
-p. 137.
アナモルフィックなフレスコ画→移動する観客による光学的ゲームが行われている。モーションピクチャという結果にいたる移動のセリーを通して空間の流動は起こる。

***DREAMING FILM DREAMS [#gdec9593]

***PROTOFILMIC MAPPINGS OF (E)MOTION [#ned41cd9]
-pp. 139-140.
--西欧における映画の前史→ルネサンスの遠近法とみなされがち→視覚的な機械
--このことは映画を視覚に還元することになり、また、ルネサンス遠近法の遠近空間のイメージとの関連も見落とす。
--ここでは異なる前史を見ていく。
-p. 139.
--『自然魔術』[[Giambattista della Porta>WikiPedia.en:Giambattista della Porta]](G・B・デッラ・ポルタ)(1538-1615)
--デッラ・ポルタの著作は特に、イメージの身体的地形(corporeal geography)を地図作成することに興味が注がれている。
--デッラ・ポルタのカメラオブスキュラの記述について
---暗い部屋の中のホワイトスクリーン上で繰り広げられるスペクタクルとしてとらえ、そこでは、物語があり、すでに映画のように語られている。それはただの記録装置、真実の再生産をこえている。
---さらに建築的表象再現によって、映像的フィクションの中の旅の空間をつくりあげている。
---映像の動きは内部(interior)へと集中し、そこで行われた。
    ↓
---ラテン語でcameraの意味は「部屋(room)」である。イタリア語ではまだこの意味あいが残っている。((chamber(部屋、議場)とcamera(カメラ)が同じラテン語camera(丸天井の部屋)を語源とする。英語のcameraはラテン語のcamera obscura(暗い[obscura]部屋)の後半部が省略された形。))
---カメラオブスキュラが単純に映画装置になるわけではないが、それは、映画のような空間、映画のような部屋となる。→映像の家(a house of pictures)─a movie house

-p. 140.
--デッラ・ポルタの時代の興味の中心
---空間の地図化
---身体の地図化→Andreas Vesalius([[アンドレアス・ヴェサリウス>WikiPedia.ja:アンドレアス・ヴェサリウス]])(1514-1564)ブリュッセル生まれ 、解剖学者で医師。((参考文献:謎の解剖学者ヴェサリウス ISBN-13: 978-4480042323))
--デッラ・ポルタ→空間の地図化と身体の地図化が結びついている。
---人間と動物における観相学的変形((観相学の参考文献:ヨーロッパ人相学 ISBN-13: 978-4560026342))
---イメージ生成の分野全体が物質性を超えるものとして構想されている。
---イメージの変形を空間に地図化する→映画

-p. 141.
--Charles Le Brun([[シャルル・ルブラン>WikiPedia.ja:シャルル・ルブラン]])(1619-1690)『感情表現に関する講演(Conference sur l'Expression Generale et Particuliere des Passions)』
---観相学を動きという手法で行った。
---変化し続ける内面の情感を身体の上に地図化しようとした。→動き、情感の目に見える兆候としての顔の表情の地図。
---顔が内面における出来事の痕跡となる。

-p. 142.
--[[Johann Kaspar Lavater>WikiPedia.en:Johann Kaspar Lavater]](ヨハン・カスパー・ラーヴァター)(1741-1801) 『観相学断章』
   ↓ Philippe Duboy「Lequeu: An Architectural Enigma」
   ↓ Anthony Vidler「The Writing on the Walls」chapter7
--[[Jean-Jacques Lequeu>WikiPedia.en:Jean-Jacques Lequeu]](ジャン・ジャック・ルクー)(1757-1826)
~

--可視の空間と不可視の空間の間の絶え間ない運動のなかにあらわれる情動(emotion)の概念を形成した。
--身体の外面と内面の地形の間の道としてのランドスケープは、自らを形成する新しい地形として想像される。地図作成的に形成された地(ground)は前-映画的空間のためのもの、情動(emotion)を生み出す身体的機械と読める。
~

--[[Duchenne de Boulogne>WikiPedia.en:Duchenne de Boulogne]](デュシェンヌ・ド・ブローニュ)(1806-1875) 『人間の相貌のメカニズム(Mecanisme de la physionomie humaine)』(1862年)
---被験者の顔に電極棒をあて特定の表情筋を収縮させる→写真に記録して観察する
~

--可視的な情感を解剖することの具現化というさまざまな試み→いくつかの視覚、空間芸術の実践と互いに影響しあった→カメラ・オブスキュラ、マジックランタン

-p. 142.
--光学装置による物理空間の解剖→映画に先立って、身体的な浸透性を見せた。
--この流動的ランドスケープ=情動(emotion)のランドスケープ
--情動の動き(motion of emotion)を見る観相学(診断学)は映画(motion picture)へと導く→生きた空間の診断学は映画的光景を作動させる。

-p. 143.
--マジックランタン→顔の表情の変化(笑うから泣く、恐怖から希望へなど)の移行が上映された
--影のなかの光を通して、身体自身の触覚に基づく動きに情動が見つかった。

***A LANDSCAPE OF SHADOWS [#h0c9123e]
-p. 144-145.
--Athanasius Kircher([[アタナシウス・キルヒャー>WikiPedia.ja:アタナシウス・キルヒャー]])(1601-1680)
---ローマのコレッジォ・ロマーノ(Collegio Romano)(学校)に世界各地の珍品を集めた部屋(cabinet)をつくった。→Museum Kircherianum
---キルヒャーの[[マジック・ランタン>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Magic_lantern_Kircher.jpg]]→半影のスペクタクル。映画の具体化の予感。光と影の結合。

-p. 146.
--[[Étienne-Gaspard Robert>WikiPedia.en:Étienne-Gaspard_Robert]](エチエンヌ・ガスパール・ロベール)(1763-1837) 通称Robertson(ロベールソン)
---ロベールソンのファンタスマゴリー→感覚的効果を求める悪魔や幽霊のイメージ
    ↓
---建築的スペクタクルの死
--ベンヤミンにとってのファンタスマゴリー→中心的な言説の場、19世紀の視覚文化を定義するもの。
--André Bazin([[アンドレ・バザン>WikiPedia.ja:アンドレ・バザン]])(1918-1958)
---「もしも造形芸術に対して精神分析が行われるとしたら、屍体の防腐保存の慣習は、造形芸術発生のための基本的な一要因とみなされるかもしれない。」((アンドレ・パザン『映画とは何か 2』p. 13.)
---身体イメージの防腐保存→写真、映画

***THE FASHION OF AUTOMATA [#c07729b7]
-p. 147-148.
--墓地と同じように、映画は身体イメージの残余が存在する空間である。
--これらは複数の時点に存在し、複数の場所を単一へと崩壊させる。
--映画、墓地、庭園→ヘテロトピア。多様な地理的世界の断片、一時的な歴史を単一の実空間に並置することができる。
--ヘテロトピアな空間→場(site)に住まう身体の歴史性と同様に場所(place)自体の建築学の中に時間をとどめておく。
--イメージの都市は葬儀である。→動的静寂が身体を記録し、その歴史性の痕跡をとどめつつ、身体に記憶を与える。
--映画→時間と空間における瞬間の保存。死と不死の地理の旅。生命を吹き込む能力の具体化。生き写しの(情)動[(e)motion]を作動させる。
--自動人形(automaton)→身体自身をシミュレート。映画の地理的ファンタスマゴリーへのステップ。
---ベンヤミン→「モードはいままで、色とりどりの死体のパロディ以外の何ものでもなかった」(B1,4)、「性を無機的な世界へ…もっと深く物質の世界へ誘い出す」(B3,4)((ベンヤミン『パサージュ論』第1巻))
---有機と無機の間の動き。自動人形、マネキン、映画。
--動くイメージは動きに対する情動によって生気が与えられる。→動きの解剖学、自動人形の身体(somatic)空間の再演、異常なほどの親密空間の精査、肉(flesh)の地理の作成。

***DEATH DISPLAY: WAXWORK AND TABLEAUX VIVANTS [#f2b67d3a]
-p. 148.
--[[Barbara Maria Stafford>WikiPedia.en:Barbara Maria Stafford]](バーバラ・スタフォード、『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』、『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』)→啓蒙主義におけるレクリエーションの方法はさまざまな視覚的教育や娯楽の形式からなる。それらはしばしば、新しくて感覚的なテクノロジーの展示に頼っており、身体を通して情報がもたらされる。
--好奇心→身体の地形学と情動の力学。
--自動人形→肉(flesh)が機械へ、機械が肉(flesh)へ変化する。前映画的展示。蝋人形、メディカル・キャビネットの展示(解剖、薬理学、博物学の見世物)。
-p. 149.
--蝋人形
---肉体(corporeal)のランドスケープの再生産が身体自身を展示の場(site)に変える。
---この分野では多くの女性が活躍した→Marie Tussaud([[マリー・タッソー>WikiPedia.ja:マリー・タッソー]])(1761-1850)、別名 Madame Tussaud(マダム・タッソー)。他の女性と同様にファーストネームは避けられた。[[マダム・タッソー館>WikiPedia.ja:マダム・タッソー館]]
---パイオニア的存在→[[Alessandra Giliani>WikiPedia.en:Alessandra Giliani]](アレサンドラ・ジリアーニ)(1307-1326)
--[[活人画>WikiPedia.ja:活人画]](タブロー・ヴィヴァン)
---蝋人形を反転したもの→活人画では生きた肉体が凍らされる。蝋人形では凍っている肉が生気を与えられる。
--死は動きの縁に横たわっている。→生が機械的に止められる、あるいは肉が動きのなかに「捕獲される」。→映画(moition picture)は両者の力による光景において進行する。
--蝋人形と活人画の働きを拡張することで、映画は(情)動[(e)motion]が死を使いこなすイリュージョンを提供する。
--生と動きを持つ身体を描くこと(死体防腐処理の過程)→画像生成の中心であり、映画(motion picture)へと向かう歴史的運動であった。

***TABLEAUX MOUVANTS: BETWEEN ART AND SCIENCE [#cda96c74]
-p. 150.
--映画以前、見世物と科学は身体の運動の場において衝突した。当時は「ピクチャレスクと科学の美」は密接な関係があると言われていた。
--ランタンの投影は触覚的な領域(人間、動物の解剖、博物学、地理学、建築、他の空間的な表面)をスキャンしていた。

***MOVING PICTURES, MESMERIZING IMAGES [#o6e71172]
-p.151.
--Franz Anton Mesmer([[フランツ・アントン・メスメル>WikiPedia.ja:フランツ・アントン・メスメル]])(1734-1815)
---動物磁気。私たちが分かち合っているエネルギー、流体。これでコミュニケーションができる。メスメルは患者に力を送り、治療しようとした。→催眠。精神分析療法の誕生。
---移動するメスメルの眼差しと身体の力を患者に送る。彼は患者の身体自身にある症候に影響をあたえられると考えていた。
--無意識の力を動かすことによって動いたのは触覚的視覚(tactile eye)であった。

-p. 152.
--メスメリズムについて述べることは、動きそして触れる視覚的な力、内部の空間に影響をあたえる眼を認めることである。
--映画の誕生と精神分析の誕生の一致
--変形する幻想的なイメージ→(夢)分析が精神分析と映画、精神分析理論と映画理論を関連付けた。

***SPACES OF WANDERING: CABINETS OF CURIOSITY, ROOMS OF DISPLY [#u5370ed1]
-pp. 153-154.
--[[驚異の部屋>WikiPedia.ja:驚異の部屋]](cabinets of curiosity)
---現代の美術館の先例。芸術と自然の区別を壊し、境界をあいまいにする。
--肉体(physical)の標本と身体(body)部位の分類→観客の身体に対する肉体的(corporeal)地図の感覚における再発明。
--博物館の制度は、進化論と調和した視ることの線的な道順を確立した(Tony Bennett 『The Exhibitionary Complex』)
--驚異の部屋は歩き回る人の軌跡によって規則性を打ち破り、歩き回る人自身の文化のマップを作る。
--驚異の部屋の展示に集められるようになったのは「内部(interior)」の製作過程(メーキング)であった。そしてインテリアデザインのように、そこには早々に映画へと導かれ、また独自のプライベート-パブリックのスペクタクルへと導かれる建築術があった。
--映画館(movie "house")とその透過性の内部のスクリーンによって再度具体化されたモダンのスペクタクル、これに形を与え経路を決めたのはイメージの(再)収集のための箱/部屋だった。

-p. 155.
--驚異の部屋は単に展示を行ったのではなく、社会的な性と民族の地図化に対する反応を作り出した。→博物学的好奇心とミュージアムは展示された要素と観客の間にファンタスマゴリーを作り出した。
    ↓
--世界の眺めの室内における断片は、物理的・心理的に空間をゆっくりと歩き回るようにして、彼女自身の心的地形と相関して読まれる。

***MONDO NUOVO: A "NEW WORLD" OF TRAVELING CURIOSITIES [#v8aa497b]
-pp. 156-157.
--一般に、好奇心(curiosity)((参考文献:[[Krzysztof Pomian>WikiPedia.en:Krzysztof_Pomian]](クシシトフ・ポミアン)(1934-)『コレクション―趣味と好奇心の歴史人類学』(平凡社)))と旅行(travel)は、心理的な性質において関連するようになった。
---好奇心(curiosity)→知りたいという特定の欲望。絶え間なく動く。さまざまな方向に広がって行く。→漂流(drift)という可動性。
    ↓
---さまようことの感覚だけではなく、さまよう経験に&ruby(・・・・・・){位置している};ということをほのめかす。
---好奇心の動かされ、好奇心に答えてさまざまな方向へ動く。動きのテクスチャを生み出す。→驚異の部屋から動くイメージ(moving image)へ。
--観る者-窃視者(spectator-'''voyeur''')から女性の観る者-旅行者(spectatrix-'''voyageuse''')への移行
--Optical box、Viewing boxには多くの種類がある。persepective box(英語)、optique(フランス語)は光学機器を強調した名称で、peep show(英語)、Guckkasten(ドイツ語)は 窃視、のぞき見を強調している。MONDO NUOVO(([[Mondo nuovo>WikiPedia.it:Mondo_nuovo]]))(イタリア語)は旅行の効果が前面に現れていて、また、視覚性とのぞき見が強調されることへの批判が現れている。((原注59))サイトとして見られることで箱は男性窃視者のおもちゃ以上のものを明らかにする。
--Optical boxは旅行のための想像上の乗物として機能している。

-pp. 158.-159.
--Mondo Nuovo
---18世紀初頭、ヨーロッパの都市に一種の移動する、もの珍しいものとして都市の広場や街角に現れはじめた。
---前映画的→独りで夢中になる。物語化された動きである大衆のスペクタクル。
---スペクタクルの主題はしばしば、都市の眺め(都市パノラマ、プロムナード、通り、庭園)であり、ここでの地理は美学が科学的注視(scientific gaze)出会うところ。
--Vedutismo(ヴェドゥティズモ)とMondo Nuovoは関連がある。
---Vedutismo(ヴェドゥティズモ)は18世紀イタリアの[[Veduta>WikiPedia.en:Veduta]](ヴェドゥータ、都市景観画)の絵画ジャンル。ヴェドゥータを描く美術、技術。
---Canaletto([[カナレット>WikiPedia.ja:カナレット]])(1697-1768)の描くヴェネツィア→旅の続きを感じさせる旅行者のスーヴェニールようである。
---Mondo Nuovの眺め→時間空間的な都市の建築を経験させる。
--Mondo Nuovの観客→さまざまな階級、性別、年齢の人々がいた。その中には多くの女性市民が含まれていた。→都市の広場や街角の新しい空間。女性的な事柄が階級区分を横断した。

-p. 160.
--移動展示の興行師が動画(motoion picture)をあちこち移動する方法で見せた→Mondo Nuovは映画の初期の移動映画館を先取りしていた。
    ↓
--Lyman H. Howeya→自身の興行する映画をプログラムの中で「Lifeorama(生活の光景)」((-orama→元はhoramaで「a sight」の意味。ディオラマ(diorama)→di- (through)+orama 。パノラマ(panorama)→pan(「all」、「汎(はん)」)+orama。))と呼び、自分を「アメリカの偉大な旅行者」と大げさに宣伝した。
--空間に存在し、旅行空間に(脱)位置しているため、この実践はリアリズムを形成することに取り組んだ。つまり、パノラマはLifeoramaの形を取った→リアリズム、生活の見世物は動きの中で、場所の問題として主張されている。それは住まわれた場である。生きられ居住可能な空間の問題。どこか他のところであるそこ(there)をが想像的に「いまここ(now here)」が横切る。
    ↓
--場所の観相学はこのように動きの上で形成される。
--移動する映画宮殿(movie palace)のヘテロトピアは旅行する家であった。すなわち、居住可能性、モバイルマップ、ノマディック、触覚的ファンタジー、場所感覚の巡回地図。

***THE TRAVEL OF TRAVEL FILMS [#p25c6960]
***GEOGRAPHY DRESSED IN "-ORAMA" [#s97d6c82]
-p. 161.
--19世紀→シミュレートされた旅行経験のスペクタクルが広範にみられた→接尾辞「-orama」によってデザインされている。
--Stephan Oettermann『The Panorama: History of a Mass Medium』→これらの装置は、地平の発見と経験に由来し、そして旅行が人の地平を広げるように作用するという考えに由来する。
--これらの装置、地理→パブリックな領域と女性の日常の活動領域に入り込んだ。
--パノラマ的好奇心の地理的性質→科学とスペクタクルの間にあり、地理学の授業のための効果的道具と考えられた、ジオラマ(géorama)(([[WikiPediaより>WikiPedia.ja:幾何]]→術語「幾何」の原義は土地測量(「古典ギリシア語: "γη"(ゲー):土地」および「"μετρεω"(メトレオ):測定」)である。英語: "geometry" は 古典ギリシア語: "γημετρεω" の翻訳("geo":土地、"metry":測量)であり、接頭辞 "geo-" の音写として「幾何」(jǐhé; チーホー)が中国で考案された。日本語の「幾何」はこれの輸入であり、日本式に「きか」と読まれる。))に集約される。
--1822年の特許文献→「この機械のおかげで、地球の表面全体をひと目で捉えることができる。」
--James Wyld(ジェイムズ・ワイルド)(1812-87)の『[[Great Globe>WikiPedia.en:Wyld's_Great_Globe]]』
---1851年の[[ロンドン万国博覧会>WikiPedia.ja:ロンドン万国博覧会_(1851年)]]で登場し、[[水晶宮(The Crystal Palace)>WikiPedia.ja:水晶宮]]についで人気があった。
--([[Élisée Reclus>WikiPedia.en:Élisée_Reclus]])(エリゼ・ルクリュ)(1830-1905)のパリ万国博覧会(1889)のための[[提案>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Reclus.jpg]]
--パリ万国博覧会(1900)の『[[Globe Céleste>WikiPedia.en:Globe_Céleste]]』
-pp. 162-163.
--これらのジオラマ('''géorama''')→地球が反転されて内部が地球の表面に覆われている。観客は南極から入って地球を横断する。→映画館のように世界の表面を旅行する。
--世界が反転し、外部が内部になる。映画の可逆性の建築術が前景化し、また雰囲気の上で直接行われる。
--コズモラマ([[Cosmorama>WikiPedia.en:Cosmorama]])([[図>GG_img_M:Atlas of emotion&openfile=cosmorama.jpg]])((参考文献:R・D・オールティック『ロンドンの見世物2』ISBN 978-4336027375))→Mondo Nuovoを引き継いでいて、パノラマやディオラマ(diorama)のちょっと変わったもの。Mondo Nuovoの室内化したもの。薄暗い部屋に入って、連続している開口部を通してスペクタクルな眺めを楽しむ。これらは建物の壁にはめ込まれ、鏡、レンズなどで拡大されている。
---コズモラマは建築の開口部(aperture)の概念を変形した。→窓をレンズに変えた。
---かつては箱を覗くことでイメージが形になっていたが、空間を横切ることによってイメージが見られるようになった。
---人は家から直線で数千マイル離れたところに移送される。
---ランドスケープや都市が好まれ、たのミニチュアパノラマのように"フィジカルでピクチャレスクな光景"、"部屋の中の旅行"と呼ばれた。
-p. 164.
--コズモラマ・ルームズでは軽い飲食ができ、グッズも買えた。そこではイメージはショーとセールに利用された。観客はイメージに吸収され、同様にイメージを吸収する。→ウィンドウ・ショッピング
--コズモラマから派生したものの一つが"Physiorama"と呼ばれたのも偶然ではない。

***HOUSING PICTURES [#ddea391e]
-p. 164.
--エイドフュージコン[[Eidophusikon>WikiPedia.en:Eidophusikon]]([[図>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Eidophusikon.jpg]])
---[[Philip James de Loutherbourg>WikiPedia.en:Philip_James_de_Loutherbourg]](フィリップ・ジャック・ド・ラウザーバーグ)(1740-1812)によって作られた。
---1781年公開。
---光の効果とからくりを駆使(影絵、マジックランタン、パントマイム、ステンドグラスを取り入れ、[[Jaquet-Droz>Wikipedia.en:Pierre_Jaquet-Droz]](ジャック・ドローズ)(1721-1790)の自動機械興行『スペクタークル・メカニーク』への関心と結びついた)。((参考R・D・オールティック『ロンドンの見世物1』ISBN 978-4336027368))
-p. 165.
--エイドフュージコンとコズモラマはMondo Nuovoがパブリックの街角で展示していたものを、パブリックな建築の内部空間(見ることの部屋)に変形させた。←映画的カメラオブスキュラ(パブリックでプライバシーな暗い"部屋")になる前のもの。

***DRESSING THE INTERIOR: FILM AS PANORAMIC WALLPAPER [#g27ca052]
-p. 165.
--([[パノラマティックな壁紙>GG_img:Atlas of emotion&openfile=panoramic_wallpaper.jpg]])(panoramic wallpaper)は18世紀後期に現れた。その当時、フレスコ画やタペストリーは壁紙に取って代わられたものであった。この壁紙は、さまざまなイメージ、特にランドスケープで部屋を飾った。
-p. 166.
--ポンペイの秘儀荘([[Villa dei Misteri>WikiPedia.en:Villa_of_the_Mysteries]])のように、フレスコ画の壁はつねに建築的2重化の形式とメタ建築的な旅行を示している。
--装飾的絵画は古代ローマ時代に流行し、バロック時代に再び現れた。→天井、教会や宮殿の壁を覆っていた。
--18世紀→庭の部屋。壁を覆っていた表面の境界が全体的な眺めへと拡張された。
--19世紀、[[Joseph Dufour>WikiPedia.en:Joseph_Dufour_et_Cie]]、[[Jean Zuber>WikiPedia.en:Zuber_Cie]]、その他→パノラマティックな壁紙は大人気となり、絵やタペストリーに取って代わった。
---パノラマティックな壁紙は外部として内部を再構成した。部屋がひとつの装飾的要素によるとき、外部が建築的外観によって内部として作られる。
---パノラマティックな壁紙は大量生産のモードに頼っていた。→芸術と工業の混成物。映画。
---さらに映画に見られる新しい空間表象の形式であった。→連続するパネルが、接続/分離を作り出し、順次的連続をつくり出す。こうして、ランドスケープや物語を描き出す。
    ↓
--視覚の水平線の次元の強調。まなざしがその空間を巡るように促す。→イメージが見る者の身体を包み込む。その空間の居住者。
-p. 167.
--その(プライベート)空間に誰かは、内部/外部を見ながら、壁/スクリーンの上に自分自身の内部空間を投影する。映画を見る者のように、このような居住者-見物人(inhabitant-spectator)はまた旅行者(passenger)でもある。
--居住者-見物人-旅行者(inhabitant-spectator-passenger)の行動様式は映画的実践に先立って建築的に確立されていた。
--家の中の身体は旅行させられ、また、遍在(ubiquity)は単一の部屋にあった。
-p. 168.
--パノラマティックな壁紙→部屋を離れることのない旅行を提供。
***VOYAGE AROUND MY ROOM [#l0365fdb]
--パノラマティックな壁紙→図書館、百科事典。
--パノラマティックに想像されることで、場所(location)は歴史のサイトとなる。というのは、この前映画的配景図法は空間を使って物語る。→映画のように地形を経由した歴史のパノラマを提示する。
-p. 169.
--居住者-旅行者(inhabitant-traveler)、彼女は旅行中であり、かつ定住している。居間と食堂はそれ自体外へ開かれているので、パノラマティックな旅行がどこでもできる。→内部の囲いは崩壊した。
--私的な空間をガラスの建築が再定義する以前に、コルビュジェの水平窓が見るために囲いを切り開く以前に、装飾が内部の変形をもたらしていた。→プライベートが鏡の効果においてパブリックに関係するようになった。プライベートとパブリックの交差と共同展開。
    ↓
--この変形から新しい主体が生じ、映画館(movie "house")に収容された。この主体は映画に先立って成立している。内部と外部の通路であるスクリーンとしてのパノラマティックな壁紙。建築と地理が交差するところで生じ、内部化された空間の様々な形態を横断する地図作製である。
--装飾としてのパノラマティックな壁紙→ミザンセーヌ。

**6 Haptic Routes: View painting and Garden Narratives [#v2930250]
-p. 171.
--Théophile Gautier([[テオフィル・ゴーティエ>WikiPedia.ja:テオフィル・ゴーティエ]])(1811-1872)→'''(qwq)'''「なぜ私たちはディオラマへと開かれたリビング・ルームの窓を持たないのだろうか。それは美しいランドスケープを表わしている。……月に一度、私たちの窓からの眺めが変わることは素晴らしいことだろう。それは、移動することなしにローマからナポリへと、ナポリからメッシーナへと、あるいはどこでも好きなところへと向かうことである。」
--Michel de Certeau([[ミシェル・ド・セルトー>WikiPedia.ja:ミシェル・ド・セルトー]])(1925-1986)→'''(qwq)'''「そうでなければ、結局のところ旅はなにをうみだしているというのであろう。一種の方向転換、「自分の記憶の砂漠の探訪」をおこない、……「故郷における離郷」(ハイデッガー)のごときものをおこなうのでないとすれば?」((ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』 国文社 1987))
--新しい視覚は旅行のそれだったのであり、それは空間的広がりを切り分けた。観る者の運動に空間は吸収され消費された。新しい建築術は動きにおいてはじまった。“ピクチャレスク革命”とは動きのパースペクティブの中にサイトを置くことから生じたが、それは空間のより一層大きな比率を統合するために外へと拡張した。
--18世紀において、旅行に関する言説の生産物が現れはじめた。→旅の詩、風景画、庭園の眺めは空間視覚的な楽しみであった。これらは感覚主義者の想像の理論を物質的な接触に結びつけた。触覚的な意識が作られた。→このことは欲望を空間の中に位置づけそれを空間的実践として強調した。
--眺めの形式においてサイトを捉えることのへの願望の増大について、[[アラン・コルバン>WikiPedia.ja:アラン・コルバン]](Alain Corbin)(1936-)→「想像を絶するこの視界の拡大がどこに端を発するかについては、長らく議論が戦わされることになるが、……すでにイタリアの「&ruby(ヴエドウータ){街景画};は、まとまった視野のなかに市街の並びを括りとするすべてを会得していたので、ほどなくしてツーリストたちはナポリ共和国の市街地に臨む段丘に立ち、満腔の思いを持してナポリ湾を一望のうちに収めるようになる。……散策と対になり、理想の一日散歩コースのなかに組み入れられた「視界の眺め prospect view」……この「視界の眺め」がもたらす快楽をバネにして、まなざしのあたしい仕組みが作業しだす。」((アラン・コルバン『浜辺の誕生──海と人間の系譜学』 藤原書店 1992))
-p. 172.
--ランドスケープを通じてサイトや都市の景観をスキャンすること、見晴らしに対する集団的な興趣→映画へと導く。↓
--コルバン→「四囲を見回しながら&ruby(パノラマ){俯瞰図};を丸々視野の中に包摂すること、&ruby(パノラマ){俯瞰図};の変化の度合いを目測すること、変貌する空間のなかに神の手を見いだすこと、移動するカメラ・アイさながら、見晴るかす水平線から前景へと目線をゆるりと振ること、おのが視野の奥行きを先の先まで見透かし、立体感を学びとること、そうしたことのひとつひとつが、当時散歩好きのひとびとに新たな歓喜をもたらしたのである。」((Ibid.))
***RETRACING TRAVELING SHOTS [#cc6c61a2]
-p. 173.
--地理学と身体は触覚的な領域を共有している。→生きられた空間の地形。
--18世紀初めに、物質的なものの領域は内部と外部の交差するところとしてデザインされた。この交差という結びつきは「都市と身体という新しい科学の間」に確立され、そして、「啓蒙主義のプランナーは旅行を強調した……このように"動脈"と"静脈"という言葉は、身体の血液系に交通システムを求めるデザイナーによって都市に適用された(Richard Sennet([[リチャード・セネット>WikiPedia.ja:リチャード・セネット]]))。→都市の動きと体液の循環のアナロジーは新たな可動性と触覚性の地図を定義していた。
--18世紀の終わりまでにピクチャレスク運動は、ランドスケープ・デザインと絵画的な眺めにおいての活動の感覚的舞台を確立していた。その空間の感覚はJohn Locke([[ジョン・ロック>WikiPedia.ja:ジョン・ロック]])(1632-1704)の哲学的伝統に由来していた。しかし同時に、[[Barbara Stafford>WikiPedia.en:Barbara_Stafford]](バーバラ・スタフォード)(1953)が主張するように、空間性に対するより事実的なアプローチを求める他の動きもあった((バーバラ・スタフォード『実体への旅』ISBN9784782801642))。
--19世紀の現実主義の伝統において、ランドスケープを描くというこの手法はついに終わった。しかしながら、ピクチャレスクと実体という2つの感覚は混成的形態の複数のものにおいて結びついていた。それらはそれぞれ異なった方法で、ロケーションへの注意を促す空間の視覚性を高めた。映画もその生成的なランドスケープのひとつを作った。
--空間性の拡大は旅行する視覚とそのサイトを眺める(site-seeing)効果が機械化された19世紀においても継続した。
--「事実追及者」と「感覚追及者」((Ibid.))は動くイメージ(moving image)という混成的な領域に出会いの場を見出した。映画(motion pictures)──(情)動[(e)motion]の領域──は分析的想像力の旅と感覚的快楽の追究を結びつけた。初期モダニティの多様な地理学的傾向は、空間を描写し経験する映画の触覚的手法において結合された。映画は地形的な“感覚”を確立した。それは情動に変化させられた地理学的アトラクションだった。
***CARTOGRAPHIC VIEWING [#j6f77216]
-p. 174.
--18世紀半ばの地形、眺望の絵画→見る者を描かれたランドスケープあるいは都市景観(cityscape)の中へと運び去る。擬似旅行の感覚を作り出す。
--イタリアのヴェドゥータはオランダの都市の絵画とは異なるコードを使用している。((オランダについてはスヴェトラーナ・アルパース 『描写の芸術―一七世紀のオランダ絵画』ISBN 978-4756693303))
---ヴェドゥータにおいては、都市の描写は景観画のコードを都市の地形へと移す段階的な表象再現といった種類において形成された。
---カナレットとGiovanni Paolo Pannini([[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ>WikiPedia.ja:ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]])(1691-1765)
---地形の表象再現と密接に連動しているので、場所(location)のドラマを強調する。イタリアのヴェドゥティズモにおける都市描写はサイトの物語的脚色へと向かう傾向があり、そこは場所(place)の高められた触覚的テクスチャに特徴づけられる。
---事実の正確性は問題にはされなかった。心的な“都市のイメージ”を与えることに興味がそそがれた。そしてひとつの“認知地図”を提示するのではなく、多様な観察の経路が示された。もしイメージの都市が、都市の住人に住まわれ持ち歩かれる多様な地図の塊を持っているならば、今度はこの動きと住まわれた空間が、都市のその地図化の中に、景観画によって刻み込まれる。
-p. 175.
--都市の景観は外部を地図化することに加え、興味深いことに内部(interior)の歴史に参入した。
---16世紀頃から、地図は壁の装飾にふさわしい展示物として多数作られた。そして、他の地図作成の物とともに家庭(domestic)のインテリアの姿となった。
---アトラスは世界を家庭(domestic)の空間に持ち込んだ。地球儀は世界をミニチュアサイズにし、容易に自分の家で取り扱えるようにした。壁の地図からアトラスへ、そして地球儀へと、装飾と地図化は手と手を取り合って進展していった。
--都市の景観は家庭(domestic)における都市生活の姿となった。都市の景観は建築の装飾から装飾芸術までに及よび、18世紀半ばから家庭(domestic)の物の上のイラストレーションとして現れた。皿、ボウル、グラス、カップ、トレイ、机、宝石箱、扇。都市の景観は外部から内部へと旅行し、家庭(domestic)の内部(interior)空間を地図化した。
--地図作成は17世紀までに独立したジャンルとなった。都市の景観の歴史は芸術的な地図の歴史と明らかに並行であり、互いに影響しあっていた。都市の景観は必ずしもプランと同じではなかったが、それらは地図化という表象再現的地形を共有していた。
-p. 176.
--景観の芸術は特定の地形を調査し取り囲むために昔からの旅行の傾向に従った。それは、地形と位置それ自身を地図化したいという衝動であり、パノラマを手に入れるために教会の塔や山、建物に登らせた。その最初から、都市の景観はこれらを実践し、現実の限界を超えたものを採用した。
    ↓
--例えば、[[Jacopo de' Barbari>WikiPedia.en:Jacopo_de'_Barbari]](ヤコポ・デ・バルバリ)(1440-before 1516)の『[[Bird's-eye View of Venice>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Bird's-eye_View_of_Venice.jpg]]』(1500)
---この複数のシートの都市地図(壁の装飾のためにデザインされ、旅行に関する目的のものと推測される)において、包括的な眺めは視覚の全体化ではない。
---美術史家Jurgen Schultz→都市全体にわたるさまざまな高い視点から作られた、多くの異種のドローイング。これらから組み立てられた全体的眺め。
---この想像的な眺めにおいて、はっきりとした焦点はない。むしろさまざまな消失点のモンタージュとして作られている。見る者は点に固定されないか、あるいは一組の距離に固定されるのではなく、その空間の中と周囲を自由にさまようように思われる。
-p. 177.
--一般的に、鳥瞰図は想像的な透視図であり、現実の環境あるいは大地にある高い点からではない、不可能な視点からのものである。
--地上に縛り付けられた観察を空中から見ることへと変化させる、レオナルド・ダ・ヴィンチの初期の試みのときから、この地図作成の手段は芸術家ー地図作成者の創造的想像の産物であった。
--ルイス・マランは「鳥瞰図は私たちに都市のスナップショットを与えてくれる」と主張する。しかし、鳥瞰図は地図とランド・スケープの出会いの浸透性のある場所であり、そこでには無数の(不)可能な旅行プランが刻まれている。
--たびたび、目的論的な透視図、あるいは、上位の視覚からの“認知地図”の間違えられたものとして退けられるが、鳥瞰図は全体化の透視図ではなく、“どこでもない”そして“いまここ”からの眺めであった。この想像の脱位置化された眺め(かなり後に映画という空間-視覚(spatiovisual)の技術によって可能になった)は、単一の固定された視点から視覚を自由にしようとした。それは想像力を働かせて、視空間を移動させることであった。鳥瞰図のシーンはでっち上げられた空間観察を上演した。その空間観察は物語空間への扉を開いたのである。
--鳥瞰図において、その都市を知る者と見たことがない者もともに、可動性の形態として描かれた場として都市を見出した。また、これらの眺めは、より広大な水平的拡張を形成することによって、透視図的な制限を乗り越えようと努めた。
---このように西洋の都市のイメージは拡張した。この拡張はルネサンス的透視図という都市の考えが、表象的に無傷のままであるのを不可能にした。
---18世紀、都市の景観はいくつかの部分、と同時にさまざまな視点で作られた。都市のイメージは、フレームのまさに境界を拡張した包括的なパノラマにおいて組み直される前に、断片化と多元性の強烈なプロセスを経験した。部分的な眺め、砕けたモンタージュへと切開された都市の身体は作動させられた。これらの都市の眺めは、視覚それ自体の領域の拡大の試みる原映画を展示した。
-p. 178.
--Mondo Nuovoのような前映画的装置が、Vedutismo(ヴェドゥティズモ)を人気の視覚的地形へと変化させたのは不思議ではない。それはヴェドゥティズモを変わりやすい街頭風景の領域へと移送した。最終的に、動画(motoion picture)という“運ぶもの”になったのは、この透視図の地図作成的な可動化であった。
***MOVING BEYOND PERSPECTIVISM [#f5b627df]
--「映画の投影された像は動きを再形成し、透視図のフレームから触覚的空間を取り戻した」、「映画はさまざまな現実性を並置することを通じて、技術的で閉鎖的な視覚の限界を越える可能性を提示する」([[Alberto Pérez-Gómez>WikiPedia.en:Alberto_Pérez-Gómez]](アルベルト・ペレス=ゴメス)、Louise Pelletier)
--映画の空間は古典的な統合された集中的パースペクティヴという同質(homogeneous)の空間ではない。古典的なそれは身体の前にあって、まるで“単一の動かない眼”(パノフスキー)によって見られているようである。一方、異質(heterogeneous)な空間は絶えず動いている中心から成る。そのため動くイメージ(moving image)は心理生理学的(psychophysiological)空間とうい転換する軌跡を含んでいる。そこでは観察者-通行人(spector-passenger)はランドスケープの中に地図化される。
-p. 179.
--[[Jan Vredeman de Vries>WikiPedia:Hans Vredeman de Vries]]((Hans Or Jan Vredeman De Vries))(フレデマン・ド・フリース)(1527-1607)
---『透視図』(1604-05)→想像力にあふれる手法で描かれたさまざまな建築空間を示している。「動くまなざしの付加」(([[Svetlana Alpers>WikiPedia.en:Svetlana_Alpers ]] (スヴェトラーナ・アルパース)(1936-)『描写の芸術』))。
---ド・フリースの建築的な構造には、空間の居住者と侵入者をその表現の中に含んでいる。このような居住者のいる空間をつくることで、さまざまに具体化された透視図を表わした。
----例えば『透視図』の中の[[No. 29>GG_img:Atlas of emotion&openfile=de_vries_perspective_no29.jpg]]では中央のたぶん解剖台の上に横たわる人が建築を物語化している。建築を動きの中に置き、そして建物の構築テクトニクスを物語の中の世界から来ている動き(diegetic movement)へと押し動かす。
----[[No. 28>GG_img:Atlas of emotion&openfile=de_vries_perspective_no28.jpg]]。床に横たわる人体(遺体?)。右側のドアから人が入ってこようとしている。奥のドアからも人が入ってきている。残りのドア、そして窓も全て開け放たれている。何かが起こっている。空間の物語の宙吊り。静止しているものがない。この透視図の空間は展開する居住の物語を具体化している。→感情、触覚的感覚へアプローチ。
***MOBILE MAPPINGS: VIEWS IN FLUX [#e7f33737]
-p. 180.
--18世紀の光景は、描かれた都市の歴史について述べることによってまさに生じる。出来事によって存在する空間を表象することと、都市のダイナミクスを伴って動くことで、光景は物語化のための潜在性を提示する。18世紀において、光景の長方形空間はより物語的な空間を組み込むことへと拡大された。それは画像が長い形式で物語る、フィルムの一片に先立ってのことであった。この拡大された透視図は19世紀のパノラマの全景にまで及んだ。
-p. 181.
--地理学的に場所を描くことににおいて、探索の意欲は広範囲にこの地形の地図を描き、また都市のサイトを“~スケープ”へと作り変えた。都市の地形学的な光景は頻繁に表象再現的な記録として表現され、観察の技術それ自体が結集された。離れた物をより近くに描くこと、近くのものを後方へと押しやること、光景は映画のように空間を解析した。それは全体として読み込まれるために、空間を部分へと分けているかのようであった。(図:[[John Rocque>WikiPedia.en:John_Rocque]](ジョン・ロック)(1709-1762)『[[Garden Plan of Chiswick House, Middlesex, 1736>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Garden_Plan_of_Chiswick_House.jpg]]』)
-p. 182.
--光景が動きを捉えて固定するとき、光景は動きを物質化しようと努め、そして画像の表面上に物理的に動きを接合する。
    ↓
--[[Marshall Islands stick chart>WikiPedia.en:Marshall_Islands_stick_chart]](マーシャル諸島の棒のチャート)
---海洋での旅の方角を示す機能。
---この種の地図は動きの物質化に取り組み、動きを視覚的にするだけではなく、触覚的にもしている。
***JOURNEYS OF THE HOME BODY [#h0cc1b0a]
-p. 185.
--市街図と建築モデルは動きの見世物のひとつの特殊なケースを提供した。18世紀と19世紀を通して、建築とトポグラフィーはまさに展示の形式となった。→コズモラマなど
--トポグラフィカルで建築的な展示の機能は、実際の旅行者に追憶や欲望を誘発するだけではなく、"家にばかりいる人(homebody)"に想像上の旅行を提供する。建築的サイトの展示において、観客的身体は、トポグラフィカルな旅行を経由することで家を離れた。家と一体の身体の均衡、身体と一体の家の均衡はこの異なる種類の旅行によって粉々にされた。→"家庭の旅行(traveling domestic)":内面の旅行、想像の旅行、ヘテロトピアの経験。"他のどこかでの今ここ(elsewhere now here)"
***HAPTIC MEASURES [#nae8d7af]
-p. 191.
--旅行文化の空間-視覚(spatiovisual)的具体化の結果である触覚的尺度(haptic measure)は、モダニティのまさに起源とともに生じた。旅行は必ずしも視覚的な事柄ではなかった。必ずしも視覚的経験と考えられる必要もなかった。Judith Adlerが示しているように、観光旅行は起源的にはサイトシーイング(Sightseeing)の形式ではなかった。
--歴史的には、旅行の経験はそれ以前の文学や言語モデルから展開したものとして、視覚化されるようになった。1600~1800年。目撃した人の観察。
--放浪や旅行は知ることの方法となった。このことは知それ自体を地理的な事柄へと変化させた。
--旅行のための準備は、本を読むことから観察の方式へと変わった。それは旅行を予期させるのも、あるいは旅行をシミュレートしたものとしての視覚的な物の追求も含んでいる。旅行のルートは、地図、イラスト、景観、そして19世紀に広まった視覚教材を使った旅行のレクチャー、これらを合わせたものであった。地形的-解剖的ルートの視覚的聴覚的な再発明をおこなった映画のような映画的地図化に導いたのは、この道である。
***PICTURESQUE SPACES [#m09cafca]
-p. 192.
--「ピクチャレスク・トラベラーの最初の楽しみは……連続的に彼の視界を開き、そして彼の視界に生じる新しいシーンの予感である。」[[William Gilpin>WikiPedia.en:William_Gilpin_(priest)]](ウィリアム・ギルピン)(1724-1804)
-p. 194.
--見物人の楽しみと建築的プロムナードのために展開される“眺めのモンタージュ”→ピクチャレスクによって確立された。コルビュジェとエイゼンシュテインの歩き回る手法。
--parallax(視差)の効果はその表象を駆り立てた。parallax(視差)の表象は、観察点の変化と関連したオブジェクトの明らかな移動を作り出した。ピクチャレスクは、連続的な動きの経路に沿って解体されたそのモンタージュのリズムにしたがって、眺望から眺望への転換を成立させた。→映画。
***THE PERIPATETICS OF THE PLEASURE GARDEN [#c2e9aff3]
-p. 196.
--歩き回る庭園はヘテロトピアの地理的な上演として展開する。→単一のものの中で、実空間をいくつかの(心的)空間と時間の断片と並置する。旅行の空間のように、他のサイトから孤立し、そして他のサイトに侵入されている。
--[[Pleasure garden>WikiPedia.en:Pleasure_garden]](プレジャー・ガーデン)
---ロンドンの[[Vauxhall Gardens>WikiPedia.en:Vauxhall_Gardens]](ボクスホール庭園)や[[Ranelagh Gardens>WikiPedia.en:Ranelagh Gardens]](ラヌラグ庭園)→楽しみの発見のためにそこで催されたさまざまなイリュージョンのトリックは、パブリックな楽しみのために行われた他の見世物的な奇想が伴っていた。たとえば仮面と[[Fête champêtre>WikiPedia.en:Fête_champêtre]]がイングランドでは取り入れられており、庭園をパブリックなサイトへと変えた。仮面──社会的な転換のゲーム──の構成要素は庭園自体の建築術(architectonics)によって定められた空間的転換と平行していた。眺め(vistas)の変化はまた、さまざまな社会階層と性別を含みこんでいた。というのはボクスホール庭園は全ての社会階層のためのレクリエーションの場所であり、性的な策略の場であった。
-p. 197.
--プレジャー・ガーデンは、サイトの巨大なスケールの地形的で建築的な図像のモデルを展示していた。→たとえば映画のセットデザインのように作られた。
-p. 198.
--庭園において明らかにされたものとは、映画的なサイトを眺める(site-seeing)という見世物的なものであった。ピクチャレスクガーデンの可動化され見世物化された地面は、ついに、より幻想的な動く景色に取って代わられた。
***GENDER MOVEMENTS [#t49c76a5]
-p. 199.
--ピクチャレスクは複雑にそして興味深く、女性の主観性と結びついていたが、しばしばお決まりの女性らしさに関連付けられる。建築史家の[[Sylvia Lavin>WikiPedia.en:Sylvia_Lavin]](シルヴィア・レイヴィン)が示しているように、フェミニンとピクチャレスクが相互に規定されてきたその手法は両者を軽んじる結果となった。→女性の身体は、空間の充満として想像される、庭園の構成という実際の地形である。
-p. 200.
--庭園を散策することによって、ピクチャレスクは旅行文化の興奮(emotion)を女性に対して開いた。それが空間の触覚的知識の形成過程に加わったように、ピクチャレスクは空間の新しい形式の道を敷いた。そこでは女性の身体はまさに貫通できる対象ではなく、間主観的な空間の可動化の主体であった。ピクチャレスクはモダニティに現実的影響を与えたようである。それはモダンの視覚としてだけではなく、モダンの空間性(通過という女性的な楽しみのまさに肯定を可能にした、可動性の形式)としてであった。

***GEOGRAPHIC SENSES [#s92991a2]
--動き(motion)や旅行が人の感覚の宇宙を拡張するという考えを促進したのは、18世紀であった。運動(movement)は物理的な刺激の形式として強く望まれ、感覚はこの地理学的な衝動の中心となった。地理学は場所の“感覚”と感覚的な空間の経験となった。
--18世紀のランドスケープデザインは、動きが心的な活動を規定し、“空想”を生じさせるという考えを具体化した。感覚によって集められたイメージは思考の“一連の流れ”を生み出すと考えられた。
-p. 202.
--この空間の哲学は流動性の形式、情動の地理を具体化した。局所と地形を人に結びつけることで、感覚的に結合すること、それは想像の情熱的な旅を強調する。
--映画的な(情)動[(e)motion]を作り出した運動は、空間の実際的な“感覚”であった。ピクチャレスクはこのシナリオと地図作成のイメージに触覚的な視覚を提供した。
---[[Christopher Hussey>WikiPedia.en:Christopher_Hussey]](クリストファー・ハッシー)(1899-1970)→ピクチャレスクの力は「眼を通して感じる習慣を、想像力が形づくることを可能にすること」であった。
--ピクチャレスクにおいて具体化されていることは距離の美学ではない。それはむしろ視覚を通じて感じることが教えられる。ここでは視覚は表皮である。つまりそれは皮膚である。視覚は接触の感覚になる。ピクチャレスクの視覚は触覚的視覚である。
--庭園において、散策は物理的なつながりと情動的な反応の間主観的地形を活性化した。動的な(kinetic)旅行は動的な感覚を生じさせる断片的な地形を横切った。
--映画的な空間とは異なり、ピクチャレスク空間は断片と不連続の美学である。地形は全体性ではなく、多様性と不同性の展開であった。感覚の組合せ順列は表面のランドスケープに刻まれる。変化するセットのドラマを形成しているピクチャレスクの建築術は、情動のランドスケーピングのための媒体として振舞う。
-p .203.
--感覚的快楽の記憶劇場、庭園は見物人を内面的な空間との“接触”状態におく外部であった。庭園の空間を通り抜けて移動するとき、絶え間ない二重の運動が外部と内部の地形を結びつけた。このように庭園は外側を内側へと変化させるものであった。しかし、それはまた外部の地理の上への内面の世界の投影でもあった。感覚の可動化において、ランドスケープの外面は内面の地図へと移された。庭園の経路に沿って、地形のピクチャレスク美学は、内側と外側のまさに縁である皮膚表面の実際的な読みを具体化した。ピクチャレスクの空間はジェンダーの通路に刻み込まれている。それは性的な空間を与える内面と外面、そして縁の間の境界線を越えて行く。

**7 An Atlas of E''motion''s [#p92d7774]
-p. 207.
--Gertrude Stein([[ガートルード・スタイン>WikiPedia.ja:ガートルード・スタイン]])(1874-1946)→'''(qwq)'''「地理は住民と船(vessel)から成っている。」
--ベンヤミン→'''(qwq)'''「以前から、およそ何年間も、わたしは、&ruby(ビーオス){人生};(bios)の空間を一枚の絵に図解する(graphically on a map)というイメージを思い描いている。」((ベンヤミン「ベルリン年代記」『ベンヤミン著作集12 ベルリンの幼年時代』晶文社 1971))
--地理は住民と通路の形式(この通路は生活空間を含む空間を通り抜ける)から成るこの地図を占有している。この地理は“船(vessel)”というひとつの地形である。つまり、保持と移動の場所である。それは流動性の容器と経路のシステムである。このような住民と船(vessel)の地理は図表化(charting)の対象にされるかもしれない。航海の地図作成法において表されているように、住民のいる船(vessel)の進路は、想像的な容器も持っている。
--この地図作成法の見方において、動くイメージそれ自体は、隠喩的に船(vessel)──私たちを運び去る輸送手段として──として理論化される。映画は、情動(emotion)の地図のように、ここでは地理的な船(vessel)、動くイメージの容器、情動(emotion)のための乗物になる。
--地図化のこの特定の形態を可動化することで、離れた眼のよって作り出されるコンセプトを一体化し、総括するのが地図であるという批判的な傾向を越えて行くことを、ここでは目的としている。
-p. 208.
--[[Madeleine de Scudéry>WikiPedia.en:Madeleine de Scudéry]](マドレーヌ・ド・スキュデリ)(1607-1701)の小説「クレリー(Clélie)」に出てくる地図→[[Carte du Tendre>WikiPedia.en:Map of Tendre]](恋の国の地図)
---この可動性の地理学的小説は、場所に対する情緒に関連する地図化において、多くの肉体化したものを携えている。この肉体化したものは芸術、地図作成、政治の敷居に存在する。

***GEOGRAPHICALLY SPEAKING [#r9e20cd9]
--空間は肉体的な“脈(vain)”である。メルロ・ポンティは身体と空間の関係について述べている。→「私たちの身体は空間の中にある事物のようではない。それは空間に住み着くか、空間を訪れる……それを経由して私たちは空間に接近する。」
--自然の世界では“擬態”は有機体と環境との間に存在しうる。しかしながら人間にとって、そのような空間への同化は透視図的な視点を失うことが伴うかもしれない。
--「空間とは貧欲な力を思わせる。空間はそのその人たちを追いかけ、包囲し、……消化してしまう。遂には、空間はかれらにとってかわる。そのとき身体は……それ自身が空間になったように……感じる。」(カイヨワ)((ロジェ・カイヨワ「擬態と伝統的神経衰弱」『神話と人間』 せりか書房 1975))
-p. 209.
--地理の基礎的な模倣の力、肉(flash)それ自体が空間になる。→Gertrude Stein(ガートルード・スタイン)(1874-1946)の地理についての作品。
---スキュデリの地図のように、女性と彼女たちの地図を排除しない。それは地理学的に定義され、“自分だけの部屋(A Room of One's Own)((1929年の[[Virginia Woolf>WikiPedia.ja:ヴァージニア・ウルフ]](ヴァージニア・ウルフ)(1882-1941)の作品のタイトル))”として地図化されている。
***GEOGRAPHY AS A ROOM OF ONE'S OWM [#de85b2a3]
***A GLOBAL VESSEL [#ja144454]
-p. 210.
--マントヴァの[[ドゥカーレ宮殿>WikiPedia.en:Ducal_palace,_Mantua]]内にあるIsabella d'Este([[イザベラ・デステ>WikiPedia.ja:イザベラ・デステ]])(1474-1539)の[[ストゥディオーロ>WikiPedia.it:Studiolo_di_Isabella_d'Este]]→[[写真>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Isabella_studiolo.jpg]]
***“FASHIONING” G: GENDER AND GEOGRAPHY [#l9c26f16]
--すべてのアトラス(atlas)が地理学から女性を排除していたわけではない。実際、アトラスにおいて、ジェンダーのイメージが生じている。あるレベルでは、まさに女性の身体が地図になっている。ジェンダーの政治学はあらゆる地図化にいきわたっており、また特に地図の縁にある図像において明らかである。
--国が女性のまさに肌の上にデザインされるとき、この身体の政治学は文字通りに解釈された。これは、女性として形づくられたヨーロッパ(Europe)の地図のケースである。Europa in forma virginis(乙女の形をしたヨーロッパ)として知られる、Europa([[エウロペ>WikiPedia.ja:エウロペ]])は1537年に[[Johannes Bucius Putsch>WikiPedia.en:Europa_regina]]によってデザインされた。それはヨーロッパ中で広く出版され、数多くのバージョンが流付した。その中には[[Sebastian Münster>WikiPedia.en:Sebastian Münster]](ゼバスチアン・ミュンスター)(1488-1552)の編纂の『[[Cosmography>WikiPedia.en:Cosmographia_(Sebastian_Münster)]]』(コスモグラフィア)の『[[Europe As A Queen>GG_img:Atlas of emotion&openfile&openfile=Europe_As_A_Queen_Sebastian_Munster_1570.jpg]]』も含まれていた。この地図が示しているように、地理学のフィールドは特に歴史的なジェンダーの位置づけを解明するのに役立つ。というのは、いわゆる“地理学的に奇異な”サイトには性別をつけられ土地が含まれるからである。西欧の地図は性的な差異を(未)知の土地('''terra (in)cognita''')として提示している。領土の地図化はまさにジェンダーの地図化に沿って進行している。
-p. 211.
--初期のモダンの文化において、解剖学の本、つまり身体のアトラスは、地理学的なアトラスと表象再現の様式を共有していただけではなく、空間物質的配置も同様にそうであった。結果としての複合の“アトラス”は、当時のファッションと旅の文化現れた身体の地図に似せるやり方で、その身体を描いている。このように解剖学、衣服、旅、そして地図作成の間のつながりが確立された。
--[[Claes Jansz. Visscher>WikiPedia.en:Claes_Janszoon_Visscher]](クラース・ヤンス・フィッセル)(1582-1652)の『[[Gallia>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Claes_Janszoon_Visscher map_of_gallia(1650).jpg]]』(1650)
--[[ヴェッキオ宮殿>WikiPedia.ja:ヴェッキオ宮殿]]にある[[Sala delle Carte geografiche>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Sala_delle_Carte_geografiche.jpg]](地図の間)→ガルダローバ(Guardaroba)として知られ、その当時、地理のキャビネットと呼ばれ、現在クローゼットを意味する名前をもっていた。
--ジェンダーと地図化は明らかに関連している。多くの場合、女性は地理的なオブジェクトにされた。それは、2項対立に閉じ込められたものであか、あるいは単に、土地自体のまさにその概念を女性化している、ある種の表象再現における地形と共に崩壊させられたものであった。しかし図像的レベルでは、ジェンダーは他の方法で地図化された。
***ART AND THE GEOGRAPHY LESSON [#t4710a66]
***ALTAS AND THEORIA [#q4b17c37]
-p. 216.
--[[Cesare Ripa>WikiPedia.en:Cesare_Ripa]](チェーザレ・リーパ)(1560-1645)の『Iconologia(イコノロギア)』に出てくる図像→『[[Geographia>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Cesare Ripa_Geographia.jpg]]』(Geography)(片手で地球儀を測り、コンパスは空を指している。もう片方の手は測定器具を大地、物質世界へと降ろしている。)、『[[Corographia>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Cesare Ripa_Corographia.jpg]]』(Topography)は両方とも女性が描かれ、知識の世界を取り扱っている。
-pp. 216-217.
--『[[Theoria>GG_img_M:Atlas of emotion&openfile=Cesare Ripa_Teoria.jpg]](テオリア)』→リーパの言葉によると、「テオリアは、上を見て上昇しようとする若い女性として適切に描かれる。彼女は手を合わせ、そして上方を指している開いたコンパスを頭につけている。また気高く青い服を身につけ、階段の上から降りている途中である」。
---地理学的な上昇を目指す。それは測定し、上方を指して高みを目指す。もうひとつは建築的な下降。それは物質の世界をへと向かい、おそらく無意識でさえある。彼女はこれらの上昇と下降の間の運動を調整している。
---リーパのテオリアの図像では、地理学的な上昇は触覚的な形式をとっている。コンパスが認識の補綴となっている。この認識のヘッドセットは広範囲である。というのはコンパスは世界に対して広く開かれているからである。比喩的に、それは彼女のアンテナになる。空間の“触角”。
***"TAKING PLACE": FROM SALONS TO GARDENS [#t2d9a5c9]
-p. 219.
--スキュデリの地図『恋の国の地図』とそれに刺激された感情の地図作成は、庭園のデザインと深く関連付けられていた。『[[ヴェルサイユの迷路>GG_img:Atlas of emotion&openfile=The_labyrinth_of_Versailles(1677).jpg]]([[The labyrinth of Versailles>WikiPedia.en:The_labyrinth_of_Versailles]])』のようなプロジェクトはスキュデリの地図に似ているだけではなく、それと関連して読みうる。訪問者は“ゲーム”をつくりあげている通路の迷路を通過した。その性質は『恋の国の地図』のような地図が示すような空間的ゲームを思い起こさせる。
--地図と庭園は共に想像上の地形である。表象のシステムのように、それらは旅程(itinerary)として組織され、形作られている。ランドスケープは運動を要求する眺めの中で経験される。スキュデリの地図は同じように機能する。つまり見る者によって旅行されるように意図されているのはサイトである。この見る者は地図それ自体に刻み込まれる。
--スキュデリの地図は、一連の刺激的な運動として経験されるための情動(emotion)のランドスケープを描いている。庭園のデザインのように、ランドスケープという外部(exterior)世界が内面(interior)のランドスケープへと変形されること、またその逆も同様に可能にする通路がある。
-p. 220.
--言説の地理学は整いつつあった。それは読物の空間の複合的な方策によって組織化された。『恋の国の地図』が地図化されたのはこの触覚的な地形においてであった。エクプラーシス([[ekprasis,ecphrasis>WikiPedia.en:Ekphrasis]])を表象再現の記述的モードから場所と人々の物語的な地図化へと変形させることで、この地図は"住民と船(vessel)"の地理を思い描いた。
***MEMORY IN PLACE: AN ART OF MAPPING [#q151c9fb]
--記憶の芸術はつねに空間を地図化することの問題としてあり、そして伝統的に建築の事柄であった。Cicero([[キケロ>WikiPedia.ja:マルクス・トゥッリウス・キケロ]])(紀元前106-紀元前43年)の見解から百年以上後、Quintilian([[クインティリアヌス>WikiPedia.ja:クインティリアヌス]])(35年頃-100年頃)は記憶作業の方法に関する彼の建築的理解を公式化した。演説の様々な部分を覚えるためには、建物をイメージし、サイト及びシークエンスの中に埋め込む。つまり、建物の周りを歩き、そしてイメージをそれぞれの空間の部分に投入するのである。それから空間を回り、通り抜けながら、イメージが“装飾された”部屋すべてを順々に再訪問しながら、心の中で建物を再横断するということになる。この方法で心に描かれることで、記憶は動画になる。記憶は物語的で、可動性の、建築的なサイトの経験に起因する。
-p. 221.
--「シモニデスのこの功績は、もし諸々の場が心に刻印されさえすれば、それは記憶の助けになるという考察を促したように思われるが、これは実験してみれば誰にも信じられることである。なぜならば、かなり長期間留守にした後である場所に戻った場合、われわれはその場所をそれとはっきり分るばかりでなく、自分がそこで行ったいろいろなことを思い出すし、また出会った人々や以前そこにいた時心を過ぎった胸の想いさえも浮かんでくるからである。という次第で、ほとんどの場合と同様、技術も実験から生まれるのだ。まず一連の場が選ばれ、多数の部屋に分かれている広大な邸のように、それぞれに可能な限り変化に富んだ特徴が与えられる。……そこで目に留まる限りのものはことごとく克明に心に刻まれる。……まず第一の概念は、いわば前庭のようなところに置かれる。第二の概念は&ruby(アトリウム){玄関広間};に置かれるとでもしようか。その他の概念は雨水溜めの周囲にぐるりと順々に置かれたり、寝室や客間のみならず彫像やその類のものにまで委ねられる。これが終わり、いざ記憶の再生が必要となると、人は……すべての場を駆け巡り、……一軒の家の中を例にとって今述べたことは、公共の建物内でも、長旅の途上でも、ある都市を使っても、また絵画を相手にしても、同じように行なわれうるだろう。あるいは、われわれが勝手にそのような場を想定してもかまわない。従って、われわれの必要とするものは、現実、架空を問わず、とにかくそうした場なのであり、考え出さねばならぬイメージすなわち&ruby(シミラクラ){似姿};なのである。……だからこそキケロは「われわれは場を蠟板として、イメージを文字として用いる」と言っているのだ。」((クインティリアヌス『弁論術教程』第十一巻第二章。[[フランセス・イエイツ>WikiPedia.ja:フランセス・イエイツ]]『[[記憶術>Amazon.co.jp:978-4891762520]]』より))
--場所は蠟板として利用されており、それらは絶え間ないの書き直しのなかで、消すことができさらに何度で書ける文書の層を有する。場所は記憶のパリンプセストのサイトである。記憶術は想起を空間的に理解した。イメージ収集のための場所を作り、そして建築的プロムナードを用いて、想起するためのイメージ収集のこのプロセスを可能にした。この方法で、記憶は場所の触覚的経験と相互に作用した。
-p. 222.
--建築の記憶システムは中世に復活した。それは、記憶は物質的で空間的であるという感覚、その視覚的なプロセスは情動的な事柄であるという間隔に沿ったものであった。
--[[Mary Carruthers>WikiPedia.en:Mary_Carruthers]](メアリー・カラサーズ)→「記憶のイメージが本来「情動的」なものであること。つまり、それが知覚認識から生じ、感情がこめられている、ということである。……想起は経験の再現としてとらえられていた。そして、これには……想像力、そして感情が関わってくる。」((メアリー・カラサーズ『[[記憶術と書物>Amazon.co.jp:978-4875022886]]』 工作舎 1997))
--[[Giulio Camillo>WikiPedia.en:Giulio_Camillo]](ジュリオ・カミッロ)(1480-1544)、『記憶の劇場』
---カミッロについて、Desiderius Erasmus([[デジデリウス・エラスムス>WikiPedia.ja:デジデリウス・エラスムス]])(1466-1536)→「この世には人間の心が想起できても肉眼で見ることのできないものがありますが、それらはすべて熱心な瞑想によって集めることが可能であり、しかも、普通なら人間の心の奥底に隠れてみえそうもないそういうすべてのものを、具体的な記号を使って観察者がただちに肉眼で感得することのできる形で表わしうると、彼は言っております。彼がそれを劇場とよんでいるのは、ものをこのように具体的に見ることができるからのようです。」((イエイツ『記憶術』より))
-p. 223.
--映画自体は、地図-庭のように、“記憶術"であり、記憶の地図である。その記憶の劇場においては、観客-通行人は、建築的旅行に送り込まれているが、絶え間なく地理的に局在化された言説の旅程を辿るのである。この言説は場所に記憶を“置き”、場所として記憶を読み込む。

***A CARTOGRAPHY OF E'''MOTIONS''' [#wd670f52]
***AN INTIMATE MAP [#v3890a9c]
***THE FASHION OF EMOTIONAL MAPS [#receb7af]
-pp. 228-229.
--スキュデリの地図作成法を経て、言説それ自体が地図化の対象となった。言説の戦略と戦術が空間化された。この言説の地図化は想像上の場所の地理学的な図表化と絡み合うようになった。
***CARNAL KNOWLEDGE [#u1b8924e]
***THE IMAGINARY ATLAS: A FICTIONAL JOURNEY [#jaddff99]
-p. 234.
--「地図は、……物語的意図を想定しており、旅行の記録の機能で着想されているのであり、いわばオデュッセイアなのである。」((イタロ・カルヴィーノ「地図の旅人」『[[砂のコレクション>Amazon.co.jp:978-4879840899]]』松籟社 1988))
-p. 235.
--地図作成は西欧文化において、心的な空間のイメージ化を活性化した。地図作成の衝動の爆発は、それはまさに空間の政治学と密接な関係にあるが、主体の輪郭と社会組織の形式を定義し、このようにして空間との関係での自己の感覚を大規模に作り直した。物語的形式を通じて、地図作成は主体のまさに空間をデザインしなおした。彼女の空間的な想像力のためのデザインを準備することで、それは空間的な内-間主観性と間主観性の形式を作った。
***THE TRAVELING SEDUCTION OF THE ART OF MAPPING [#d96467ba]
-p. 240.
--ギリェルモ・クイトカ([[Guillermo Kuitca>WikiPedia.en:Guillermo_Kuitca]])の[[マットレス・マップ>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Guillermo Kuitca_Untitled(1989).jpg]]
---映画のように、ベットルームの地図は経験の“襞”を保持し、探っている。それは私たちのメンタルなランドスケープのプライベートな内部の織物を図に記す。マットレス・マップは複雑な物語である。
--社会空間の建築を物語ることで、地図は映画的事柄のまさに部屋に住まう。つまり映画館。→記憶の地図作成における巨大なミニチュア(Gigantic miniatures)。
***A MAPPING OF FILMIC EMOTIONS [#jaf05c4b]
***THE MAP TOUR: THE COURSE OF EMOTIONS [#fb5d150a]
-p. 245.
--ミシェル・ド・セルトーは、地図(maps)と順路(tour)というカテゴリーの間に誤った対立を作り出している((特に『日常的実践のポイエティーク』9章「空間の物語」において))。スキュデリの地図作成法的物語の形式においては、地図(maps)と順路(tour)の区別はない。両者は建築的物語の形式である。映画的記述は、セルトーによって与えられた二者択一、“見ること”あるいは“行くこと”の間を揺れ動いたりしない。それは“タブロー”を表わさい、もしくは“運動”の組織しない。見ることと行くことのまさに合成である。見ることは行くことの場である。そしてそれは運動を組織するタブローである。

**An Archive of Emotion Pictures [#he811853]
***HAPTIC THEORIES: ART AND FILM [#e454d0ba]
-pp. 247-250.
--Alois Riegl[[アロイス・リーグル>WikiPedia.ja:アロイス・リーグル]](1858-1905)の研究はベンヤミンに影響を与えた。彼が触覚性を顕在化させたことは、映画の芸術形式についてのベンヤミンの先駆的な理論を形づくった。しかしながらベンヤミンはリーグルの理論を捻じ曲げた。つまり、ベンヤミンは触れることと見ることの区別を覆した。拡大解釈すれば、リーグルがエジプト芸術で確立した触覚と視覚の間の差異を覆した。そしてその上、ベンヤミンは目的論的な構想に反対していた。その構想は、モダンの諸形式において、芸術が表象再現の視覚的なモードへと向かうと見なしていた。
-p. 250.
--特に、触覚性(haptic)が空間性の領域に位置づけられ、旅文化の調査においてもたらされる時には、私は'''栖(habitation)'''(そこでは'''習慣(habit)'''が刻み込まれている)が触覚性(haptic)という概念の一部となっていると理解している。ここでは、映画の触覚的性質は建築的な旅程(itinerary)を含んでおり、この旅程は平面性(flatness)よりもむしろ動きとテクスチャに関係付けられる。それは触覚性(haptic)を空間の触覚的(tactile)認識の基準とし、空間における私たちの運動の効果である認識とする。
***A TOUCH OF SPACE [#f3368b54]
-p. 251.
--[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック>WikiPedia.ja:エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]](Étienne Bonnot de Condillac)(1715-1780)は「視覚の感覚に制限された」人間の場合を考えると、「眼それ自身は外側の空間を見ることはできない」という意見を述べた。触れることが私たちに外側を投影する。
-pp. 251-252.
--触れることの感覚はあらゆる意味で、空間の発見と探求を可能にする。……この感覚は、私たちを想像と反響の領域に触れる快楽の追求の中をあちこち連れまわしながら、欲望を満たすだけではなく、好奇心を育てる。コンディヤックは、この運動への接触を通じて、触れることもまた持続の経験を私たちに切り開くと結論付ける。このように触覚の感覚は、最終的に歴史的な空間の配置を地図化する。
***TACTILISM IN EARLY FILM THEORY [#u4866f1c]
***A MAP OF BIO-HISTORY [#gd117a34]
-p. 258.
--ベンヤミンは「ありふれた日用品の形が痕跡となって残る。住む人の痕跡も室内に残される。」((ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション1』 ちくま学芸文庫 1995))と述べている。映画の誕生は、このランドスケープを集め、住む人のまさに身振りを動きの中で再生しつつ、これらの痕跡を記録することを可能にした。それは痕跡である。触覚(tactile)の通過。
--ベンヤミン→「記憶は過去を探知するための用具ではなく、その現場なのである。……埋もれた自身の過去に近づこうと努める者は、発掘する男のような姿勢をもたねばならない。……それはまったく同じ事実関係に何度も繰り返しかえってゆくことをおそれてはならない。なぜなら事実関係は単なる成層であり地層であるにすぎず、……。発掘の作業を成功させるためには、たしかにプランが必要である。」((ベンヤミン「ベルリン年代記」))
-pp. 258-259.
--ベンヤミン→「以前から、およそ何年間も、わたしは、&ruby(ビーオス){人生};の空間を一枚の紙に図解するというイメージを思い描いている。……わたしは記号のシステムも考え抜いたのだ。だからこういう地図の灰色の地には賑やかな模様ができるだろう。もし、わたしの友人たちの家や、青年運動の「談話室」から共産主義の青年たちの集会揚にいたる各種団体の集会室や、わたしが一晩泊ったホテルの部屋・娼婦の部屋や、決定的なティーアガルテンのベンチ、通学路、それにわたしが埋葬に参列した墓、今日その名まえは忘れられているとはいえ、かつては毎日のようにわたしたちのロにのぼった喫茶店が華やかにあった場所、いまは空室ばかりの貸しアパートが立っているテニスコートや、……体験のベルリン」((Ibid.))
-p. 259.
--生きられた都市のこの地図は、説話的に地理的に展開しながら、歴史が物語として図解される場である。面白いことに、このような歴史を形成するのは時間だけではない。日付はこの歴史が呼び戻す記憶を形成することができない。歴史、そして人の極小の歴史は場所において“生じる(take place)”。この歴史は年代順に区切られるのではなく、空間的に必ず持続する。
***SCIENCE AND THE MEASURE OF OUR EMOTIONS [#s9262b4f]
***E'''MOTIONS''' [#t228ad2e]
-p. 262.
--Emotionのラテン語の語源(Emovere)→ a moving out, a migration, a transference from place to place。情動の引力の実際的な効果は、空間的な移送、転置の経験にうちに記され、そしてそのような方法で、文化の旅行というでっち上げを支援する。
***SITUATIONIST PSYCHOGEOGRAPHY [#t34b48c1]
-p. 264.
--「'''古い地図……の助けを借りて、……地図を作製することもできる。そうした地図はこれまで存在せず、……建築と都市計画を変革する……。'''」((「漂流の理論」『状況の構築へ』 インパクト出版会 1994))(ギー・ドゥボール)
-p. 266.
--映画『The Naked City』は、シャーロック・ホームズによって取り上げられ、ジークムント・フロイトの徴候に影響を受け、そして身体の諸部分に関する形態学を組み合わせた、イタリアの美術史家Giovanni Morelli[[ジョヴァンニ・モレッリ>WikiPedia.ja:ジョヴァンニ・モレッリ]](1816-1891)が芸術において探求した分析的アプローチのように、歴史家Carlo Ginzburg([[カルロ・ギンスブルグ>WikiPedia.ja:カルロ・ギンスブルグ]])(1939-)によって描かれた“探偵的な理論的枠組み”に適合する。……その断片的な技術を通じて、映画『The Naked City』は、戦術としての位置を開拓しつつ、都市のモバイルな地図を再構成する。……空間は、都市住人の諸々の物語のうちで具体化しつつ、その輪郭の表出を反映しつつ、心理的な空間になる。
-p. 267.
--「心理地理学は、意識的に整備された環境かそうでないかにかかわらず、地理的環境が諸個人の情動的な行動様式に対して直接働きかけてくる、その正確な効果を研究することをめざしている。……心理地理学的なという形容詞は、……それと同じ発想によってなされた発見に属する……」((「都市地理学批判序説」 Ibid.))
--「空間的発展は、……情動的現実を考慮せねばならない。新しい建築、自由な建築……むしろ部屋や廊下、街路などの雰囲気、建築のなかに含まれた人々の身振りと結び付いた雰囲気が持つ効果に働きかけるものである……建築は、……感動的な状況を素材として持つことによって進むべきである。」((「状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告」 Ibid.))
***A SITUATION BEYOND SITUATIONIST CARTOGRAPHY [#qb3f7729]
-p. 270.
--「測ることは……移動させることである。人は測るために自分自身を移動させるだけではなく、領土の表象において、領土の幾何学、あるいは地図作成の還元において、領土もまた移動させる。」(ポール・ヴィリリオ)
***THE MAP, THE WALL, AND THE SCREEN: PART Ⅰ [#r75bdd57]
-p. 272.
--ルドルフ・アルンハイムによれば、地図は「心の中に視覚的イメージを喚起することはでき」、そのイメージは「観客の記億の貯蔵庫からそれを思い出させる」。そして「視覚的イメージを思い浮かべるには経験によって培われた想像力が必要」である。
***THE MAP, THE WALL, AND THE SCREEN: PART Ⅱ [#i1c55935]
-p. 272.
--「もろもろのフレームのフレームとしてのスクリーンは、共通の尺度をもたないものに共通の尺度を与えるということである。共通の尺度をもたないものとは、たとえば風景のロング・ショットと顔のクロースアップや、〔太陽系などの〕天文学の系と水滴であって、……フレームは、以上のすべての意味において、イメージの脱テリトリー化を保証するものである。」((ジル・ドゥルーズ『シネマ1』 法政大学出版局 2008))
-p. 273.
--「地図は自己に閉じこもった無意識を複製するのではなく、無意識を構築するのだ。地図は諸分野の接続に向かい、器官なき身体の封鎖解除に、それら器官なき身体を存立平面上へと最大限に開くことに向かう。地図はそれ自体リゾームの一部分をなしているのだ。地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解可能、裏返し可能なものであり、たえず変更を受け入れることが可能なものである。それは引き裂かれ、裏返され、あらゆる性質のモンタージュに適応し、一個入、一グループ、一社会集団などによって実行されうる。それを壁に描くのもいいし芸術作品としてとらえるのもよく、政治行動としてあるいは瞑想として構築するのもいい。……地図は多数の入り口を持って」((ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』 河出書房新社 1994))いる。
***THE MAP ROOM OF MOVING PICTURES [#y9f519a2]
-p. 274.
--驚異の部屋や植物園のように、アトラスは、世界を見、指で触れ、そして操るための対象に変えつつ、家で(at home)世界を見えるようにしはじめた。このように、人々は世界に“触れ”、触覚的にそれを探検しはじめた。
-p. 275.
--地図の部屋
---バチカンの[[Galleria delle carte geografiche>WikiPedia.it:Galleria_delle_carte_geografiche]](地図の間)
---[[ヴェッキオ宮殿>WikiPedia.ja:ヴェッキオ宮殿]]にある[[Sala delle Carte geografiche>GG_img_M:Atlas of emotion&openfile=Sala_delle_Carte_geografiche.jpg]](地図の間)
---[[パラッツォ・ファルネーゼ>WikiPedia.it:Palazzo_Farnese_(Caprarola)]]にある[[Sala del mappamondo>GG_img:Atlas of emotion&openfile=Sala_del_mappamondo.jpg]](地図の間)
--地図の部屋では、壁はスクリーン──“投射”の場となる。地図の部屋の壁は浸透性のサイトである。それは、そこに投影されるパブリックな夢の多数の層と歴史の地層でいっぱいである。この一時的なもの、地図の“部屋”の建築的な感覚はまさに、映画の“家”(movie house)のテクスチャーである。
***THE MAP, THE WALL, THE SCREEN: GENEALOGICAL PANORAMA [#ted3c411]
-p. 277.
--映画自身の地図製作法は地理学的な条件に対応する。その条件とは“空間情緒(space-affect)”の転換である。この空間感情は空間自体──特に都市空間──の断片化、そして内部(interior)の形成を伴う。そしてこれら両方とも映画を生み出したモダニティの時代から生まれた。メトロポリスの多数の眺め、歩行者の経験のモンタージュ、空中飛行。これらは新しい都市のマッピング──シネ・シティ──のなかにある。

~
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