GG Lab. by GGAO

A Picturesque Stroll around Clara-Claraのメモ

serra.jpg

イヴ=アラン・ボア(Yve-Alain Bois)著
(Richard Serra (October Files)
Hal Foster (編集)
The MIT Press (2000/9/18)
ISBN-13:978-0262561303
pp. 59-96.所収)


  • pp. 59-60.
    • リチャード・セラは彼の作品『Shift』をピータ・スミッソンが見たときに、その作品のピクチャレスクな質について語ったことが、理解できなかった。→セラは図と地の原理によって良き形(good form)を生み出す、ゲシュタルトな読みという絵画的(ピクトリアル)なものこそ、自身の作品から追放したいものだったからである。
    • 1960年代にミニマリズム批判として現れた、床の上に素材をレイアウトする作品に対しても、床が地、素材が図であるとしてセラは批判していた。
    • スミッソンの『Spairal Jetty』のようなアースワーク作品も上空からの撮影された写真によって知られていたが、スミッソンは作品が平面に還元されることには否定的であり、実際に動きのあるムービーカメラを好んでいた。
    • 上空からの写真が破壊する多元的な見えは、ピクチャレスクの矛盾した結び目の問題を提示する。
  • p. 60.
    • ありふれたピクチャレスク理論→自然に強いるのではなく、サイトの多様性と特異性を強調しながら、その可能性を示す。
    • セラ→彫刻の要素は景色(landscape)を読むためのバロメータとして振舞う。景色のなかを歩くことと見ることの弁証法は彫刻的な経験を確立する。
  • p. 61.
    • セラの作品→アイデンティティーと因果性の破壊にもとづいている。
    • スミッソンのいうピクチャレスク
      • あらかじめ頭の中にある構成なパターンをもった土地の写しではない。
      • その効果は先験的には決定できない。
      • 散策者(stroller)を前提とし、視線の架空の運動よりも、足による実際の運動を当てにする。
    • スミッソンとは異なるもともとのピクチャレスク
      • 庭は家から見られる絵画と考えられている。
      • 小さな見えの連続、休止が散策者(stroller)の通る道に沿って、配置(アレンジ)されている。
    • この二つの考えの裂け目にセラの作品が関わる。
  • p. 62.
    • セラ→作品をつくるとき、プランからはじめない。彫刻の上空からの眺めのスケッチとしての幾何学的な図を描かない。「地面に近い部分でさえ、私はエレベーションの特異性に興味がある(セラ)」
    • ピクチャレスク→すべての地形を紙の平面性へと還元することとの闘い。
    • プランからエレベーションへという使い古された根本的転換。
    • 最近まで絵画は観客(spectator)に決して水平面として向かい合ったことはなかった
  • p. 63.
    • René Louis de Girardin(ルイ=ルネ・ド・ジラルダン)(1735-1808)*1
      • 平面図を絵の効果の中に見出すかわりに、絵を平面図の効果の中に見出すという間違った実践が建築および庭に見られると指摘した。
      • 彼は見習いの庭師にフルサイズの模型を敷地に置くことを奨めている。──建物のファザード、植物を広げた白地の布で表し、池を地面に広げた布で表す。
      • これによって、あなたの絵の中のように自然の中に同じ効果を作り出すことができる。建てる前に、全ての関係、まわりのものとの調和を考慮に入れることができるだろう。
    • セラをGirardinに結びつけるのは問題ないが、しかし、セラは絵を作り出そうとしていたのではない。
    • Girardinの実際の構築物のエレベーションのはイリュージョンが残っているが、彼がフルサイズの模型を使うことを奨めていたことは、スケールからサイズを区別するもの理解していたことを証明している。
          ↓
      この区別はセラの「特殊なエレベーション(specificity of elevation)」への興味の核心のうちにある。
  • p. 64.
    • ヘンリー・ムーア、アレクサンダー・カルダー 、イサム・ノグチの作品にはスケールがない。小さいサイズの模型を大きくしたものである→スケールはコンテクストに依存する。
    • 同様に事務所で小さいサイズ模型を作る建築家も同じ傾向にある。
    • 建築家によるフルサイズ模型の例
  • p. 65.
    • セラは自分の作品が建築と対立するものであり、建築の原理にあまり関係ないと語っていたが、ボアはこの点に疑問を投げかけている。
    • ボアが引用したピーター・アイゼンマンとセラの対談でのアイゼンマンの発言
      • 彫刻がギャラリーや美術館から離れ、建築と同じ場所と空間を占めるとき、彫刻は自身の必然として空間と場所を再定義する。それは既存の建築の空間と場所を変化させ、批判する。
      • この批判は、建築のスケール、手法、素材、手続きを利用したときに効果が出る。
      • 言語を批判すること→第一の言語の構造を取り扱える第二の言語があり、それは新たな構造を占有しない。
    • ↑上記がセラの彫刻がモダン建築の中に見出す位置であり、両者をつなぐもの→parallax(視差)
    • parallax(視差)→ギリシャ語のparallaxisに由来。変化、物を眺める位置の変化の結果からもたらされる物の位置の明かな変化。
  • p. 67.
    • Peter Collins(ピーター・コリンズ)(1920-1981) カナダの建築史家 『Changing Ideals in Modern Architecture』→モダン建築の根本的な源泉として、18世紀半ばのparallax(視差)への興味を取り上げている。
      • ロココの大広間の大きな鏡。(18世紀半ば以前は、建物の内部は本質的に、箱のような取り囲まれたものであった)→常に廃墟として眺められた。
      • Robert Wood(ロバート・ウッド)(1717-1771)彫刻家のパルミラ遺跡への旅→廃墟が見せるさまざまな眺めという楽しみ。
      • Etienne Louis Boullée(エティエンヌ・ルイ・ブーレー)(1728-1799)の壮大なプロジェクト
      • Jacques-Germain Soufflot(ジャック-ジェルマン・スフロ)(1713-1780)設計のパンテオン(サント・ジュヌヴィエーヴ教会:ゴシック建築の構造の軽さとギリシャ建築の荘厳さを融合しようとした)
  • pp. 68-69.
    • Julien-David Leroy(ジュリアン=ダヴィッド・ルロワ)(1724-1803)『ギリシア最美の建築遺跡(Les ruines des plus beaux monuments de la Grece)』で有名。
          ↓
      • 片蓋柱(pilaster)と付柱(engaged columns)を受いれない→壁から離れて柱が配置されたもののほうが、見る者(spectator)の動きに合わせて変化するから(庭園〈ピクチャレスク庭園ではない〉の木と壁を例にあげて説明)→スフロによるパンテオン
    • Uvedale Price(ウヴェデール・プライス)(1747-1829)ピクチャレスクの理論家。ロバート・スミッソンが引用している一人。
      • 「人間の悦びの実り豊かな源のうち二つ、……多様性……(そして)、複雑さであって、これは多様性とは別物でありながらそれと密接につながりあい混ざりあっていて、片方はもう片方なしには存在し得ないほどである。私の考察によれば、風景における複雑さとは、一部を曖昧に隠すことによって」、「好奇心を刺激し、養い育てる」。*2
      • 彼にとっては初期のイギリス式庭園は十分には、ピクチャレスクではなかった。
  • p. 70.
    • ピーター・コリンズの指摘→ピクチャレスクの理論家は風景としての庭園と風景画を同じものとして取り扱うことが引き起こす問題を解けなかった。
          ↓
    • このことに気づいている者もいた。Humphry Repton(ハンフリー・レプトン)(1752-1818)→「画家が風景を見るのは固定した地点からである。それに対して造園家は動きながら地形を見る。」((レプトン『スケッチ集』(The Art of Landscape Gardening所収)、日本語訳は『美術・建築・デザインの研究 1)
          ↑
    • parallax(視差)の働きの発見→このことが「静止した光学的眺め(static optical view)/歩き回る眺め(peripatetic view)」の矛盾を明らかにした。
    • parallax(視差)と建築の関係が現れている発言→Henry Home, Lord Kames(ヘンリー・ホーム・ケイムス卿)(1696-1782)「家に向かうまっすぐな通路は避けなさい。曲がりくねった線の遠回りのアプローチがよりよい……まっすぐなアプローチでは、最初の状況が最後まで続く。遠回りのアプローチでは、間に差し込まれた物が家を外見上において動かす。つまり、それは通行者と一緒に動くのである。……継続的に異なる方向から見られ、一歩ごとに新しい像を装う。(Elements of Criticism (1762))」
          ↓
      • 絵画的な先入観があるが、視覚の組織の確実さを壊す。ゲシュタルトの前提を除去。見る者(spectator)の身体の怠惰さと重さ、物質的存在を思い出させる。
           ↓
    • Humphry Repton(ウィリアム・シェンストン)(1752-1818)→「眼が先立って移動したのと同じ道を通って、(目標物へと)脚を決して進めるべきではない。目標物を見失わせ、遠まわしに近づかけさせなければならない。」
    • ピーター・コリンズが指摘する裂け目
      • デザインの古典的考え→一つの統一体の形成、直接的な知的構成といった図式の全体性。
      • ピクチャレスク庭園→古典とは全く逆に、全体の考えが注意深く隠されている。
  • p. 71.
    • モダン建築はこの裂け目から生じている。
    • Vincent Scully(ヴィンセント・スカーリー)(1920-)
      • 「われわれは近代世界のイメージの建築ともはや同一視できない年代まで過去にさかのぼることができる。」*3←この裂け目は十八世紀の中頃(イギリス式庭園とフランス式庭園の対立と一致するのは偶然ではない)
      • スカーリーはギーディオンに反論→バロック空間はモダン空間の先例ではない。モダン空間はバロック空間の否定である。バロックにおいて「その秩序は絶対に固定的であるが、それに対して自由の幻影が演出されている。…それゆえ精神的な意味で人間を取り囲み、保護しようとし、彼らがいかなる旅の終わりでも常に既知の結論を見出し得るように彼らを完全に秩序づけるが、結局は彼らに自由に演じさせ、全体的に行為させるものこそ建築というものなのである。あらゆることが計算されている、すなわち、劇は興奮させるものだが誰も傷つくことはなく、あらゆる人々が勝利する。それは…母性的な建築であり、今日子供たちでさえ、もし彼らが幸運でありさえすれば、自分自身を確認できるような世界を作り出す。」*4
      • 裂け目をもたらしたもの→Giovanni Battista Piranesi(ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ)(1720-1778)の『牢獄(Carceri)』
      • 「それらのなかでは、…シンメトリ、ヒエラルキー、クライマックスおよびバロック建築空間の情動的な解放性が、複雑な空間的彷徨にとってかわられ、旅の目的は見出されず、その結果見知らないままなのである。」*5
    • ピラネージの作品→ピクチャレスクの源泉のひとつ。ピクチャレスクに留まらない裂け目に関与している。
  • p. 72.
  • p. 73.
    • このピラネージの作品と文章を見て、建築的に形式がないと想像したり、あるいは断片を正しくプランにもとめることはできない。
    • ピラネージは単に建築的規則を破壊することに満足したのではなく、密かにエレベーションにおけるプランの固有性を破壊した。
          ↑
    • セラの彫刻の根本的な力のひとつ。
    • セラの作品『Terminal』についてのClara Weyergraf(クララ・バイアーグラフ)→「組み立て設計図から集められた情報を…その彫刻の経験の中では検証できない」
  • pp. 74-75.
    • エレベーションはプランを提供できない。『Terminal』は4枚の同じ大きさの台形の鉄板でできているが、そのまわりを歩くとき、他の鉄板に対して同じものであるという関係を主張する要素はない。
    • Clara-Clara
      • はじめは「X」の形に二つの弧が配置されているとうすうす感じる。→ゲシュタルト
      • 同一の円錐の部分の断片、わずかに傾いている。これらが上下さかさまに互いに置かれている。→parallax(視差)を増加させる。
      • 「Clara-Claraの内側を歩くとき、二つの円弧が形づくっている中央部の隘路へ向かうとき、観客(spectator)は一方の壁が他方のものより速く動いている、身体の右側と左側が同調しないという奇妙な印象を持つ。(P75)」
  • PP. 75-76.
    • William Chambers(ウィリアム・チェンバーズ)(1723-1796)のレポート「在ローマ・フランス・アカデミーの学生がピラネージがプランの芸術を無視していることを責めたとき、彼は極度の複雑なプランをつくった」
          ↓
    • Pianta di ampio magnifico Collegio(巨大壮麗なカレッジの平面図、1750年)』*7
      • 集中的プランと主要なモチーフとしての階段→相互に排他的(Monique Mosser)
      • 主要路であるが周辺部に対して小さすぎる中心部。その機能は8つの階段へのアクセス。
      • 役に立たず冗長的な階段。どこへも導かない。終わりなき回転と垂直循環。
            ↓
    • 通り過ぎることによって対話すること以上の特徴がない。無関心。
    • 散策者(stroller)が作り出すであろう時間と動きの経験を通して存在する非場所(nonplace)。
          ↓
    • セラの空間だけでなく全てのモダン彫刻の空間の前兆
    • Rosalind Krauss(ロザリンド・クラウス)(1941-)→ひとつの通路、中心からの転移。不随意的の想起の非連続的時間により遮断される空間。その逸脱を探査するかが観客(spectator)にゆだねられている細長い空間。
    • クラウスによる『Shift』とLev Kuleshov(レフ・クレショフ)(1899-1970)の実験の比較。
      • クレショフ効果→同じであることの一般的な母型(マトリクス)における差異あるいは分離の指標(インデックス)
    • クレショフのモンタージュは空間の連続の知覚的な優位を証明しているが、同時にそれらが断絶によって作られた連続であるという事実も表している。→『Shift』やセラの多くの作品
    • Rotary Arc』→車で周りを走るとき、凸面と凹面が共に短縮され、圧縮され、重なり、引き伸ばされる
          ↑
    • 突然ではあるが、切れ目のない連続はきわめて他動的で、映画の経験と同じ。
    • 「他動性」→セラの最初の映像作品『Hand Catching Lead』(1968)、『Skullcracker Series』(1969)、『Verb List』(1967-68)
    • 「他動性」はSergei Eisenstein(セルゲイ・エイゼンシュテイン)(1898-1948)によって発見されている→エイゼンシュテインピラネージ論のなかの映画『十月』についての箇所。
              ↓
  • pp. 77-78.
    • 「冬宮の大理石階段を昇る首相の同じ(・・)断片が続けざまに「限りなく」貼り合わされている点にある。もちろん実際には、限りなくではない。この場面を撮影した断片を四-五回反復したものである。撮影する時には、動作は極端に仰々しく」*8
              ↓
    • 結末もなく繰り返される同じ場面→セラの『Hand Catching Lead
    • 他動性の発見。断絶による空間の連続。
              ↓
    • 「『牢獄』(複数)のどこにも、奥深い深部に向かう連続的な遠近法的光景は存在しない。どこにおいても、遠近法的な深化の運動が始まると、それはブリッジ、柱、アーチ、渡り廊下などによって中断される。そのつど、そのような柱や半円型のアーチの背後から、また遠近法的な運動が飛び出すのである。…眼が期待するのは、アーチ前の建築テーマが正常の遠近法的な収縮にともない、引きつづいてアーチ後にも継続することがある。しかし、そうではなくて、アーチを通して異なる建築モチーフが見える。しかも、それだけではない。その建築モチーフは眼が予想するよりも約二倍の率で、遠近法的に収縮しているのである。…ここから、サイズと空間の意外な質的飛躍が生じる。空間的な深化の連鎖的系列──柱とアーチによって相互に切断されている──は、単一の遠近法的な連続性に一貫されない、分離された独立空間群の連鎖として、しかもさまざまな質的緊張を持つ深部空間が、逐次衝突するものとして組み立てられている。」*9
    • 「この効果は、一度あたえられた運動を慣性によって持続する、私たちの眼の特性にもとづいている。「予想された」運動の軌跡と、その代わりとなった別の軌跡との衝突は、衝動と震動の効果をも与える。映画的方法(・・・・・)における運動の心理現象も、視覚的印象の痕跡を維持する類似の能力にもとづいている。」*10
    • ベンヤミンがモダニティにみたショック体験がセラの彫刻にもあらわれている。
    • セラは「良き形(good form)」を避けるための「知覚の乗物」としての「記憶と予期」について言及。
    • エイゼンシュテインはクレショフや他の人々に根本的な点で同意していない。
          ↓
    • エイゼンシュタインはモンタージュ、ショックの経験が「いくつかのショット間の要素*11」を含むようにしたいのではなく、それが「断片の内部に、映像自体に含まれる要素に移*12」されるようにしたいのである。→ショット間の分離をショットのまさに内側での操作で終わらせることができるように。
          ↓
    • ピラネージの平面と立面の断絶がひそかに平面図の同一性と伝統的空間でのプランの伝統的支配をひそかに破壊したように。
    • セラとエイゼンシュテインは断絶を断絶自身に導入しようとする。→ピクチャレスクの問題に引き戻す。
    • 『Rotary Arc』→任意の位置の選択で始まり、そして終わる。無限に続けることができる。
  • p. 79.
    • アイゼンマンがセラの彫刻を「景色(landscape)のフレーム化」と言ったときの、セラの発言。
      • 「もしあなたが景色(landscape)に関して「フレーム」という言葉を使うのなら、それはピクチャレスクという考えをほのめかしているのでしょう。特に彫刻のための潜在性という観点への興味から、私は決して本当に景色の各部分をフレーム化するという考えを見出してのではないのです。スミッソンはピクチャレスクに興味がありました。…それは視ることの物語性に関連するという観点においての興味深い考えであります。しかしそのことは特に私には関係がありません。」
    • イギリス式庭園の設計者Lancelot Brown(ランスロット・ブラウン)(1716-1783)の会話。→「さあここ。」「私はコンマを打ちます、ここに。」「必要とされる明確な転換の場所にコロンを打ちます。ほかに、眺望を崩すことが望ましい中断の場所には括弧を。そして、完全な停止。それから新たな主題を始めます。」
          ↑
    • セラと庭師が区別される点。セラの作品は完全な停止がない。句読法ではない。モンタージュである。→一時的に連続を中断することに満足するのではなく、二重の否定によって、いわば断絶、転位、断片内で同一性を失うことをから連続性の絵画的回復を破壊し、連続を作り出す。
  • p. 80.
    • セラの作品の理解に欠かせないもの→18世紀に現れ、それ以来、建築家を束縛している議論。
          ↓
    • 動く観察者(spectator)に対して効果を作り出す。ルロワの後、このことについて考えた建築家はルイ・ブーレー。ブーレーはルワロのボキャブラリーに崇高(sublime)を付け加えた。
    • ブーレーの「埋没された建築(Buried Architecture)」*13とセラの地面に沈められた彫刻。
    • Auguste Choisy(オーギュスト・ショワジー)(1841-1909)『建築史』→ブーレーの1世紀後、歩き回る眺めを再検討した。
          ↓
    • 「ギリシアのピクチャレスク」→サイトによった、ギリシア神殿の非対称の配置。
    • コルビュジェがショワジーの影響を受けているかは別として、コルビュジェもサヴォア邸においてparallax(視差)の役割に言及している。
      • 「アラビアの建築は貴重な教訓を与えてくれる。歩きながら(・・・・・)観賞することだ。歩くことで、移動することで、建築のつくられ方が展開していく。これはバロックの建築と反対の原理だ。……この家の場合、本当に建築的な散歩によって、次々と変わった、予期しない、時に驚くべき姿を呈するのだ。例えば構造的には柱梁の絶対的な規格をもちながら、そこにこれだけの変化が得られるというのは面白い。*14
  • p. 81.    ↓
    1. 「柱の規則」は厳格ではない。コルビュジェが少しあとで述べているのに反して、柱は等間隔ではない*15
    2. このプランの混乱はランプ(傾斜路)が作り出す最初の垂直の切り目によるやむを得ないものであり、その次に、プランニングの段階における階段(このときに螺旋状になった)の移動によってより複雑化された。
    • サヴォア邸のテーマ→垂直部分の水平グリッドへの貫入(ドミノは1914年にまで遡り、その後、シトロアン住宅(1920-22)を経ていた。シトロアン住宅では階段は常にグリッドの外側にあった。)→サヴォア邸の多彩さと複雑さを作り上げている。
    • 階段とランプ→働きの分担と対(duplication)
    • 「ピロティから斜路で緩やかに上がる。それは段々からなる階段が与える印象とは全く違った印象である。階段はひとつの階と他の階を切り離し、斜路は結びつける。」*16
    • 不均衡な対、連続と断絶の対立→ショックの経験(計画の最後のほうでコルビュジェは、初期段階では半分のシリンダーで見通しのきかない箱と考えられていた階段部分の空間を突き刺し、そして開口を抉り取った。その開口は、ランプが描き出す三角形がシリンダーの上に変位された状態で投影されたようなものである。)
  • p. 82.
    • 「こうしたふたつの通路によって別の通路を移動している人との関係で自分もまた動いていると感じる時に、われわれは最も浮立つ気分になるものだ。相手の気配を感じたと思うや相手は遠ざかり、直線が曲線となって離れてゆく。こうして、相手の動きと周期的に関係を持つことによって自分の動きを正確に知ることができる。」*17
  • コルビュジェの動的な知性は例外であり、今日の建築家にほとんど共有されていない。双対の運動(dual movement)→セラの彫刻。
  • セラは『Shift』のアイデアを発展させるために、敷地を5日間歩いた。作品の「境界」は二人の人が互いを見失うことなくカバーできる最大の範囲によって決定された。
    • セラ「作品の水平範囲はこの相互の視点が維持される可能性によって確立された」、「私の開かれた作品は内的関係に関心がない。それらが位置しているところから空間をのぞき見ること、あるいは、それらが位置しているところから、他のものが配置されている方を向くことに関係している」。→"他のもの”とは彫刻の他の要素、または、ものと同じようになる他の観客(spectar)のことである。というのは、ここでは相互関係について取り扱っているからである。
  • parallax(視差)の歴史とピクチャレスク・プロムナードの歴史がコルビュジェの建築とセラの彫刻の一部となるのは、このアイデンティティの分裂、一つのものの二つへの分割においてである。
  • pp. 82-83.
    • Michael Fried(マイケル・フリード)(1939-)の論文『芸術と客体性』 ←セラの作品はこの論文への応答である。
      • ミニマリズムの芸術→演劇性(芸術の空間と観者、日常生活、ものの世界への同一化)
      • 一方で、モダニストの芸術、特に彫刻の本質的目標はこの実空間に対しての自律性である。
      • ミニマリストの作品が、観者の経験の持続を暗示していることを非難している。
      • Tony Smith(トニー・スミス)(1912-1980)の完成前の高速道路での経験→ミニマリストのモデル。
            ↑
      • フリードはこれに反対し、次のことを明示した→「どの瞬間であっても、作品それ自体が完全に明示的である」*18
    • フリードの彫刻に対する絵画的コンセプトはクレメント・グリーンバーグ)(1909-1994)に負うている。→彫刻は事物の世界に存在することを運命づけられている。このことからできるだけ逃れるために、できるだけ2次元的でなければならない。→この絵画的コンセプトでは、枠組みが小さすぎてトニー・スミスの高速道路での経験と同じような経験を作り出せない。
    • モダニストと呼ばれる立場は(グリーンバーグとフリードの違いにもかかわらす、両者は)イマヌエル・カントに負うている。→芸術の世界と人工物の世界の絶対的な区別、美の判断の即時性、オブジェクトの物質的存在への無関心。(たとえば、グリーンバーグは決してテクスチャーについては述べなかった。あるいは、一般論としてしかそうしなかった。)
    • カントにとって美は、「対象の形式に関する、そして対象の形式の旨とするところは限定にある。」*19
    • フリード→モダニストの芸術作品からミニマリストの彫刻を根本的に区別するものは、限界を先験的に確定することの不在にある。
    • セラ、『Spin Out』について、「そこには、いかなる境界の限定はない。」
    • カントにとって(フリードにとってのように)「美に関する趣味は、平静な(・・・)観照における心的意識を前提しまたかかる心的状態を保持する。」*20
    • カントは美の分析論において、観者の経験の持続(それが音楽であっても)、動く身体(特に建築の問題においての)について言及しなかった。
  • pp. 83-86.
    • モダニストの美学は徹底したカント主義であるが、判断力批判の美と崇高のうちで、美のほうに基づいている。
      • 「美と崇高とは、いずれもそれ自体だけで我々に快いという点で一致している」*21、「両者の間に著しい差異のあることもまた極めて明白である」*22
      • 美は対象の形式とその限界に関係しているが、「これに反して崇高は、形式をもたない対象においても見出される、その場合に無限定性(・・・・)は対象において、或いは対象を機縁として表象せられるが、いずれにせよかかる無限定性の全体が考えのなかで付け加えられるのである」*23
      • 美の全体性は直接に捕らえられる一方で、崇高は捕捉と総括の間の矛盾によってもたらされる。(捕捉は「無限に進行し得る」が、「総括はやがて最大量に達して」、構想力は「それ以上に出ることができなくなる」*24)言い換えると、崇高の感情は全体性の「理念」と、その全体性を理解することが不可能性であると感じとることとの分離のうちにある。
    • カントによるローマのサン・ピエトロ大聖堂にはじめて入った人についての記述→「つまりかかる場合には、観る人の構想力が、ある全体的なものの理念を表示しようとしても、構想力はこの理念にとうてい適合し得るものでないという感情である。そして構想力は、かかる感情においてその最大限度に達し、これを更に拡大しようとしても徒らに萎縮するばかりである、とは言え構想力は、これによって感動的な適意を産出することにもなるのである。」*25
          ↓
    • ボア→セラの『Spin Out』を歩いている間に私が感じた喜びは、その幾何学的形態を理解できれば生まれるのではなく、理解できないために生まれたのである。
    • 美の分析とは異なり、カントは『崇高の分析論』において、美についての分析論において彼が仮定していたのとは全く異なる、知覚のメカニズムをイメージすることを余儀なくされる。特に、彼は美的経験の時間性をやむなく導入する。もちろん彼にとっては、まだ心的動揺の問題であった。しかし、この動揺は対象の性格によって引き起こされるものである。→「崇高の感情はその性格として、対象の判定と結びついている心的動揺(・・)即ち感動を伴っている。」*26
          ↓
    • 崇高の感情は対象の壮大さから、そして思考がこの壮大さを支配、あるいは理解することの不可能性からのみ生まれるからである。「ゲシュタルト」な眺めをもつこと不可能性から生じることができる。
          ↓
    • 「捕捉の進行につれて構想力が表象を逐次に捕捉していくと、感性的直感によって最初に捕捉された分の表象は、構想力において早くも消滅し始めるので、構想力は一方で得たところのものを他方では丁度それと同じだけ失うことになり、総括はやがて最大量に達してもはやそれ以上に出ることができなくなるからである。*27(英文:For when apprehension has gone so far that the partial representations of sensuous intuition at first apprehended begin to vanish in the imagination, while this ever proceeds to the apprehension of others, then it loses as much on one side as it gains on the other; and in comprehension there is a maximum beyond which it cannot go.)
          ↑
    • ボアの知る限り、この文章は、唯一『判断力批判』でカントが時間的な用語(begin、proceed、then)を用いて美学的な構想力のメカニズムについて述べているものである。そしてセラの『Rotary Arc』についての言い換えということができるかもしれない。
    • ミニマリズムに対する非難において、グリーンバーグとフリードによって適用されたカントの基準は不適当である。というのは崇高を美の基準では判断できないからである。
    • ボア→もし、モダニティの裂け目が18世紀に実際に生じているならば、また、ピクチャレスクは崇高から生じているので→ここで求められることは、崇高を手段としてカントに戻ること。
  • p. 87.
    • 以下、ロバート・スミッソンより。*28
      • プライスはEdmund Burkeエドマンド・バーク(1729-1797)の『崇高と美の観念の起原』を拡張している。
      • バークの美と崇高の考え→滑らかさ、穏やかな曲線の理論、自然の繊細さいうテーゼ、恐怖、孤独、自然の巨大さというアンチテーゼ。美と崇高は現実の世界に根ざしている。
      • プライスとWilliam Gilpin(ウイリアム・ギルピン)(1724-1804)はピクチャレスクの形成というジンテーゼをもたらした。詳細に見てみると、それは自然の物質的序列における偶然と変化に関係している。
    • バークにとって美と崇高は相いれないものであった。プライスとギルピンにとってもそうであった。しかし、プライスはピクチャレスクは美と崇高の間に現れるのものと考えていた。((「ピクチュアレスクの語は、当時流行の美学用語であった崇高と美には含まれない美的な質を意味するために、ウヴェデール・プライスによって提示された語である」→『美術・建築・デザインの研究 1)
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    • 美のピクチャレスクと崇高のピクチャレスク。セラは崇高のピクチャレスクに属しているともいえる。

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*1 ジャン=ジャック・ルソーのパトロン、新聞王エミール・ド・ジラルダンの祖父にあたる。
*2 ウヴェデール・プライス『ピクチュアレスク試論 Essay on the Picturesqu』、日本語訳はニコラス・ペヴスナー『美術・建築・デザインの研究』p. 189-190.鹿島出版会 1980 の該当部分
*3 『近代建築』SD選書 鹿島出版会
*4 Ibid.
*5 Ibid.
*6 東京大学附属図書館(総合図書館)所蔵 の亀井文庫『ピラネージ版画集 Opere di Giovanni Battista Piranesi, Francesco Piranesi e d'altri 』より
*7 亀井文庫より
*8 エイゼンシュテイン『エイゼンシュテイン全集8』 キネマ旬報社 1984
*9 Ibid.
*10 Ibid.
*11 ロラン・バルト『第三の意味』第三の意味 みすず書房 1998
*12 Ibid.
*13 参考:アンソニー・ヴィドラー『不気味な建築』
*14 ウィリ・ホジガー編『ル・コルビュジェ全作品集 第2巻』1978 A.D.A EDITA Tokyo
*15 構造は等間隔の柱でできていて、受台がついていて、それに規則的な等しい梁が架せられる。骨組は独立していて、間取りは自由だ。 Ibid.
*16 Ibid.
*17 ロバート・J・ユーデル「身体の動き」チャールズ・W・ムーア、ケント・C・ブルマー『建築デザインの基本』所収 1980 鹿島出版会
*18 マイケル・フリード『芸術と客体性』「モダニズムのハードコア」所収 太田出版 1995
*19 イマヌエル・カント『判断力批判 (上)』岩波文庫 1964
*20 Ibid.
*21 Ibid.
*22 Ibid.
*23 Ibid.
*24 Ibid.
*25 Ibid.
*26 Ibid.
*27 Ibid.
*28 『Frederick Law Olmstead and the Dialectical Landscape』

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Last-modified: 2017-04-07 (金) 22:22:28