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Andy Warhol's One-Dimensional Art: 1956-1966のメモ

Warhol.jpg

ベンジャミン・H.D.ブクロー(Benjamin H. D. Buchloh)著
(Andy Warhol (October Files)
Annette Michelson(編集)
The MIT Press (2001/12/01)
ISBN-13:978-0262632423
pp. 1-46.所収)


  • p. 1.
    • アンディ・ウォーホル
      • 「もしあなたがアンディ・ウォーホルについてのすべてを知りたいならば、私の絵の、映画の、そして私の表面だけを見てください。そこに私がいます。その背後には何もありません。」
      • 「私の作品には全く未来がない。そのことを私は知っています。数年で、もちろん私の作品は何も意味しなくなるでしょう。」
    • 1955年前後にクライアント、パトロン、広告とデザインのエイジェンシーに送られたコーリングカード『Tattooed Woman Holding Rose
      • 50以上の企業のロゴとブランド名のタトゥーが描かれている。顔には自動車のリンカーンの大文字Lが描かれている。また、コスチュームの下の方にウォーホルの連絡先がクライアントに対して書かれている。
  • p. 2.
    • ウォーホルはキャリアの初期からモダンアートの矛盾を具体化していた。→ハイアートの高慢な孤立と広く行渡った企業の支配というマスカルチャーの屑の間における宙吊りはモダニストの芸術家の役割の中で基本的な弁証法を構成していた。
    • 「理念型の助けを借りると、二つの明確な消費スタイルが、一八八〇年代、および一八九〇年代に現れたことがわかる。この二つの消費スタイルとは、エリート型と民主型で、この年代の消費モデルにおける実験の(ほとんどと言わないまでも)多くは、この二つのカテゴリーのいずれかに分類される。エリート的消費も民主的消費も、消費の大衆様式とブルジョワ様式双方の短所に反発したのだが、それに代わる様式を探求するさいに、正反対の方向へと向かった。エリート的消費は、自らを新しい貴族、生まれではなく精神による貴族で、陳腐な日常を超越した高みで消費の個人的様態を練り上げる優れた個人とみなした。民主的な消費者は、消費をより平等で皆が参加できるものにしようと努力し、日常の消費を政治社会的声明のレベルに引き上げることで通俗性から救おうとした。」*1
  • p. 3.
    • 商業世界はファインアートの正当性に威圧され、ハイアートは(商業世界の)野蛮な純粋性に威圧されていた。ウォーホルはこの価値を転倒させた。→アヴァンギャルドのコミュニケーションをブルジョワの観衆でコード化すること。ボードレール、ワイルド、デュシャン。
  • p. 4.
    • 英雄的な抵抗と超越的な批評というロマンチックな考えを媒介にした抽象表現主義者の美学の構造。これらを許容する状態が戦後において、社会の大規模な再編成により実際にどの程度越えられているのかということを認識し、公的に承認することが芸術家の新しい世代の仕事だとウォーホルは理解していたようだ。
    • Perry Anderson(ペリー・アンダーソン)(1938-)→「モダニズムの多様性が切り離されたのは、第2次世界大戦……だった。1945年以降、古い半貴族的あるいは農村的秩序とその付属物は消滅した。ブルジョワ的民主主義は最終的に一般化された。それによって、前資本主義の過去とのある批判的つながりは切られてしまった。それと同時にフォーディズムが一気に到来した。大量生産と大量消費は西ヨーロッパ経済を北アメリカの方向に沿って変形させた。そこにはもはや、このテクノロジーが強固にするのがどのような種類の社会であろうかということについて、いかなる疑いも存在することができなかった。つまりその時、圧迫感のある安定の、一体的な工業の、資本主義の社会の環境は整っていた。」
    • 大量生産と大量消費という新しい文明は大衆文化とハイアートを強く結びつけ、ついには文化産業の領域へとハイアートの領域を統合した。しかし、この結合は芸術家の役割の変質と文化的実践の変化を仄めかしただけではなく、イメージとオブジェクト、社会の内部においてそれらが提供するものと機能に影響を与えた。そして、ついにハイカルチャーに対する大衆文化の現実的勝利が、ハイアートの物神化されたコンセプトが仮定していたであろう機能の中で生じた。この仮定はイデオロギーというより大きな装置においてなされていた。
    • Allan Kaprow(アラン・カプロー)(1926-2006)はこの変化を感じていた。→「もし人がどん底にいるならば、そこでは進むためのたった一つ方向しかなく、それは上であると言われる。この一方向においてこのことは起こった。というのは、1946年に芸術家が地獄にいたとすると、現在はビジネスの中にいる。……そこには、モダンの“夢想家”が彼の相関者、“順応主義者”よりクリシェだという可能性があり、そしてどちらも正当ではないという可能性がある。」
      • ウォーホルは“夢想家”から“順応主義者”へと進展させ、“地獄”から“ビジネス”へという移行に加わる独自の資格があった。
            ↓
  • p. 5.
    • このことはウォーホルがカーネギーメロン大学で教育を受けたことと関係がある。ここは、政治色が取り除かれ、テクノクラティックに方向づけられたバウハウスの環境のアメリカ版を彼に与えた。それは戦後のモホリ=ナギニュー・バウハウスからアメリカの多くの美術機関を通して急速に広がったものであった。
    • これらのウォーホルへの影響
      • 「ファクトリーは最良の名前である。ファクトリーはあなたが物を組み立てるところである。ここが私が自分の作品を作る、あるいは組み立てるところである。私のアート作品において、手描きはとても時間がかかりすぎる。どのみち私たちが生きている時代のものではない。機械的手段が今日的であり、それらを使用することで私はより多くの人々のためのより多くのアートを手に入れることができる。アートはすべての人のためののものであるべきだ。」(ウォーホル、1960年代中頃のインタビュー)
      • 「ポップアートはすべての人のためのものである。私は、アートは選ばれた小数のためだけのものであるべきだとは思わない。私は多くのアメリカの人々のためのものであるべきだと思う。そして、とにかく彼らはアートを受け入れている。」(ウォーホル、1967年のインタビュー)
    • Walter Paepcke(ウォルター・ペプケ)(1896-1960)→梱包材生産会社CCAの社長。モホリ=ナギの「The Institute of Design」のスポンサーのひとり。
    • ペプケや他の者たちにとって、大衆文化とハイアートは徹底的に商業化されたバウハウスの試みにおいて調和させられるべきものであった。生産と消費の領域における芸術的介入が集団社会の進歩を可能にするという政治的イデオロギー的理念の除去により、モダニティーの認識的知覚的装置は新しい商品美学(例えばプロダクトデザイン、パッケージ、広告)の発達のために、ただ単に配置されなければならないだろう。
          ↓
  • p. 6
    • 実際、その美学のでっち上げは戦後のアメリカとヨーロッパにおいて、もっとも強力で重要な産業のひとつとなった。しかしながらモダニズムの矛盾を解決することはなかった。
    • ペプケ(1946年)→「今日かつてのように、芸術家と実業家は基本的により多く共通点があり、そして彼らが自らの才能を完全にするものとして、社会により一層貢献できる。それぞれは自らのうちに、創造にしたい、世界に対して何か貢献したい、自らの痕跡を社会に残したいという不滅の欲望を持っている。」
    • この1946年から30年後のウォーホル→「アートの次に商売の術(ビジネス・アート)がくる。僕は商業芸術家として出発したから商業芸術家として終わりたい。ぼくが芸術(アート)というやつ、まあ、どう言ってもいいけど、それをした後商売の術(ビジネス・アート)に進んだ。僕は芸術を商売にする人(アート・ビジネスマン)か、商売の達人(ビジネス・アーティスト)というやつになりたかった。一番魅惑的なアートは商売に長けていることだと思う。」*2
    • 美学的超越という伝統的コンセプトと批評の抵抗に対する大衆文化の勝利は、2つの新しい“文化的”人格を作り出すだろう。ひとつのタイプは永久に数が増え続ける広告マン。彼はアヴァン・ギャルドの熱狂的なコレクターになる。もうひとつのタイプは、例えばJames Harvey(ジェームス・ハーヴェイ)(1929-1965)のような何百、何千という芸術家たちである。
      • タイム誌によると彼は「信仰と風景からのインスピレーションを描いていた。……夜はマンハッタンのグラハム・ギャラリーで展示される力強い抽象画に熱心に取り組んでいた。しかし、一日のうちで8時間は、生活のために彼は商業芸術家として働いていた。」
  • p. 7.
    • 1960年代の初期にハーヴェイは実際のブリロ・ボックス(Brillo box)をデザインしていた。その彼がウォーホルによる120個の木製の模造品に偶然であったとき、彼は箱のデザインのオリジナリティに関する認知の訴訟めいたことによって、ウォーホルを脅すことでしか、彼の芸術文化の基準に関する重大な危機の感覚を逸らすことはできなかっただろう。
    • それに対してウォーホルは、ハイカルチャーの文化産業への崩壊から生じる矛盾を調停するということ、そして商業芸術家の能力と技術を伴ってそれに参加する準備がかなりよくできていた。ウォーホルはオリジナリティや原作者という時代遅れのコンセプトから早期に自らを自由にした。そして“チームワーク”と“コラボレーション”の必要性を発展させ、また、ブレヒト主義の“アイデア”の平凡さの理解を発展させた。このブレヒト主義の平凡さは、一般的に社会的な生産物に行き渡っている形式であり、唯一独特で優れた創造者としての、芸術家の専門化し濃縮された才能だけが、伝統的にこれらから免れてきていた。

Commercial Folklore

  • p. 8.
    • 商業デザイナーとしてのウォーホルの成功はある程度この“芸術的”行動、創造力という考えの放棄に頼っていた。創造力は、公的(そして私的)な知覚経験の領域での商品の効果と個人の主観の職業上の根絶の高まりに関連付けられた、あらゆる影響を含む環境において、なお一層希薄化されたものとして現れる運命にあった。コレクターの恩着せがましい絶滅種に対する愛情を理解して、ウォーホルは正確にそれらの実践(偽のナイーブさ、教養がなく未熟であることの魅力、前工業的ブリコラージュ、無学の彼の母親)を職業上の疎外(広告デザイン)という最も進んだ最も洗練された環境の中に導入した。
    • クリエイティヴであることは難しいし、自分で作ったのもがクリエイティヴでないと思うことも難しい。それにクリエイティブだと呼ばれないようにすることだって難しい。なにしろ誰でも個性とクリエイションについて喋りまくっているんだから。皆いつだってクリエイティヴなんだ。そうじゃないっていってみると、すごくおかしい。むかし宣伝のために描いた靴はね、「クリエイション」て呼ばれていたけれど、ぼくのドローイングのほうはそうじゃない。でもたぶん、自分でも両方の考えがあるんだろうな。……僕はそれでお金を貰っていたのだし、何でもいわれる通りにやったんだ。……その頃は創り出さなければならなかったが、今は違う。そうした「手直し」のあとでも、商業美術としてのドルローイングには、フィーリングがあった。そしてスタイルがあった。ぼくを雇った人びとの仕事に向かう姿勢にもフィーリングとか、口ではいえない独特の気分が感じられた。自分のほしいものを正確に理解していて、どうしてもそれを創れといって譲らないんだ。商業美術の制作過程というのは、かなり機械的なものだったけれども、そこに携わる人間の姿勢には、何かしらフィーリングがあったと思うね。」*3
    • ウォーホルの成功は手の痕跡、芸術性や創造性の痕跡、表現や発明の痕跡を取り除くことに依存しており、矛盾にみちていた。
  • p. 9.
    • 大衆の眼は、たとえばピカビアの機械の時代の作品に不慣れであり、都合よく否認しており、あるいは、デュシャンのレディ・メイドの含蓄を無視することを好んでいたために、なおいっそうウォーホルの芸術はショックを与えた。
    • ウォーホルのコカコーラのボトルの2つのバージョン
    • ウォーホルはこの2つのバージョンのどちらにするか、迷っていた。この2つを Emile de Antonio(エミール ディ・アントニオ)に見せて、2つ目のほうがよいというアドバイスを聞いたりした。そして、2つ目のバージョンを採用した。
  • p. 10.
    • 連続的に構造化されたグリッドにおいて題材を組み立てる感覚、表示面をアレンジする感覚は、あらゆる面(物体の状態、デザイン、展示)において商品の本質を作り上げている連続的状態から生じている。連続性(seriality)は20世紀の物の知覚の主要な構造を形成した。
    • ウォーホルに見られる同じ要素の構成的原理のアメリカ的文脈。
    • ウォーホルに見られるレディ・メイドの連続的構造。
  • p. 11.
    • 1956年からのニューヨークタイムズにおける、ウォーホルによるI. Miller Shoesのためのキャンペーンでは、ジャスパー・ジョーンズとRobert Rauschenberg(ロバート・ラウシェンバーグ)(1925-2008)の絵画的戦略を網羅していた。
      • 無関係なコンポジションの細心の全体的組織化(1954年以降のジョーンズの旗の絵画)
      • 直接的痕跡のテクニックと指標的な痕跡の耐えざる使用。(John Cage(ジョン・ケージ)(1912-1992)とのコラボレーションの作品『Tire Print』(1951)以降のラウシェンバーグ)。

The Rituals of Painting

  • pp. 11-12.
    • ウォーホル→第2次世界大戦後のアメリカの文脈において、同語反復的主張の一つを否定する美学的実践を変形。
    • 同語反復的主張が最も強調されている文章↓
      • 「我々の詩はいま 我々が何も 所有していないと 認識した 。 したがって すべてが 喜びであり (それを所有して いないため)」*4
    • アラン・カプローはポロックによるイーゼル絵画の破壊によって、絵画が美的経験の儀式的次元に戻ると考えていた。この儀式的次元は、ベンヤミンが“魔術的儀礼における芸術の寄生的依存”と呼んでいたものである。ダダイズムの議論の文脈において、参加の美学(participatory aesthetic)の考えを発展させた1920年代のベンヤミンのように、カプローは1958年においてもまだ、ポロックの作品から現れる新しい参加の美学の歴史的可能性について、驚くべき熱意と無邪気さで語っていた。
  • p. 13.    ↓
    • 実際、ウォーホルの作品とポップ・アートで起こったことは、カプローの予想とは全く反対のものであった。→美的経験の中にある儀式的なものの最後の痕跡の破壊。
    • 新しい(そして歴史的に無邪気な)参加の美学→ジョン・ケージ、ラウシェンバーグも実践しようとしていた。
    • ジャスパー・ジョーンズ『タンゴ(Tango)』(1955)
      • プログラム的にケージ主義の参加のコンセプトを具体化している。
      • この作品の右下には、オルゴールのネジを巻くための鍵が突き出ている。
      • 「私は、絵画に対して能動的である物理的な関係を提案したかった。『標的』では、後ろに下がることができたか、あるいはとても近くまで行き、蓋を開けたり閉じたりしたかもしれない。『タンゴ』で鍵を巻き音を聞くとき、あなたは相対的に絵画の近くに立たなければならず、近すぎて絵画の外形を見ることができない。」(ジョーンズ)
    • ウォーホル『Dance diagram』(1962)(Fox TrotTango)、『Do It Yourself』シリーズ(1962)(Flowers)。
      • 鑑賞者の足を巻き込む『Dance diagram』と鑑賞者の手を関与させる『Do It Yourself』絵画。
      • (不可能と思われる)参加の美学を新しくしようとすることへの反応。
      • これらの絵画は鑑賞者を文字通り、ほとんど物質的に視覚的表象の平面に書き込む。それは“身体的シネグトギ(bodily synecdoche)”とかつて呼んでいたものにおいてである。“身体的シネグトギ(bodily synecdoche)”は、参加の様態の活性化によって、表象を伴った読者/鑑賞者の能動的なアイデンティティーを生じさせ、そして、美学的経験という受動的な沈思の様態を置き換えようとした、20世紀のアヴァン・ギャルドの実践の英雄的伝統であった。
      • しかしながらそうしているうちに、この伝統は、鍵となる戦略とは言わないとしても、消費という鑑賞者の能動的な参加を促す、広告デザイン自体のひとつの戦略となった。
  • p. 14.
    • もしハイアートの実践において、参加の美学が幼児の相互作用の水準に達しているとするならば、ハイアートの戦略的ゲームは大衆文化がその観衆を含みこみ支配する領域における参加の真の儀式へと移行している。このようにウォーホルの作品は思わせる。
    • 『Dance diagram』は初めての展示のとき、床面に水平に置かれていた。それは床の上でステップを踏むための実際の“ダイアグラム”の機能をシミュレートすることで、大衆文化の些細な儀式による鑑賞者から参加者への面白い勧誘を強めるだけではなく、ポロックの有名な水平面上での作業プロセスにおける絵画の状態の、文字通りのパロディであった。→Harold Rosenberg(ハロルド・ローゼンバーグ)(1906-1978)の1952年の有名なエッセイ。
      • 「あるとき、一群のアメリカの画家にとっては、カンヴァスが、実際のあるいは想像上の対象を再生し再現し分析し、あるいは“表現する”空間であるよりもむしろ、行為する場としての闘技場に見えはじめた。カンヴァスの上に起こるべきものは(ピクチャー)ではなく事件(イヴェンツ)であった。……イメージがあるとすればこの出会いの結果にほかなるまい。」*5

The Monochrome

  • p. 15.
    • ポロックの『Lucifer』(1949)、『Lavender Mist』(1950)は工業用アルミニウム塗料を使用している。→(比較的に)光が反射することが、ほとんど機械的にリテラリストの方法で、その物質に対する鑑賞者の視覚的関係を具体化する。
    • ウォーホルも工業用のエナメルを使用した。→光の反射と“空っぽ(empty)”のモノクロームな表面。シルクスクリーン。たとえば『Gold Marilyn』(1962)、『Mustard Rice Riot』(1963)、『Blue Electric Chair』(1963)など。
  • p. 16.
    • 空っぽの空間(empty space)
      • 「私はいつも空っぽの空間を残すことの利点を、それぞれの作品で見出してきた。それは強制的なものとは関係があるはずがない。ここにおいては、依然として不変の法則があるとは考えてはいけない──しかし、それは明日のための法則である。」(カンディンスキー)
      • カンディンスキーが述べたことにおいて明らかなように、空っぽの空間は異なる否定の戦略とみなされていた。この否定の戦略は美学的強制の否定であり、“開かれた”芸術的構築物との相互依存の関係に、鑑賞者自身を置く事を許す、空間的な縫い目としての機能であった。
      • 空っぽの空間は閉鎖的な抵抗として機能した。それはイデオロギカルな意味の指示を拒否することと、手ごろな読みという誤った快適さを拒否することであった。
      • 1950年代から1960年初期を通してのBarnett Newman(バーネット・ニューマン)(1905-1970)とAd Reinhardt(アド・ラインハート)(1913-1967)のモノクロームの戦略。
    • その一方で、モノクロームは神聖さが全くの平凡さへと変わる入口へと、簡単に近づいた。→究極の簡素な装置の不完全な実行。終わりのない反復による戦略の使い果たし。現実の物理的実体的オブジェクトの地位と機能、これらと戦略の口実との増大する矛盾。
      • 「そのとき“最良”という考えの追求は(知らぬ間に)“最悪”という考えを避けることとなった。そして価値は逆説に負けた。その最も痛烈な表現は空白のキャンバス(blank canvas)、動きのないダンス、沈黙の音楽、詩集の空っぽのページである。このような底なしの深みの境界において、残されていることの全てとは見せかけ(act)である。」(アラン・カプロー)
  • p. 17.
    • アメリカの文脈において、それらの伝統の重要な再展開のプロセスはラウシェンバーグの『White Paintings』(1951)から始まり、ウォーホルの『Silver Clouds』(1966)で頂点を迎えた。
      • 『Silver Clouds』はヘリウムガスを入れた銀色の枕の形をしたバルーン。ウォーホルに絵画であるとされた。この少し前にウォーホルは絵画をきっぱりとやめたと言っていた。
    • モノクロームの領域と光の反射する表面は1950年代初期のネオ・アヴァンギャルドの芸術家たちの中心的な関心であった。
      • untitled(gold painting)』(1951)
        • 金箔、銀箔を使ったコラージュ。ざらざらとした荒い布地の上に皺くちゃにした箔使っている。
        • 描画と身振りの除去。素材固有の質と手続き的性質の内側からの、排他的な表面と肌理の出来事の生成。
  • p. 18.
    • モダニストの還元、極端な否定と拒否の戦略だけが、オブジェクトと商品としての絵画の地位を高めるという最終的な結末から逃れる方法ではないと認識することで、ウォーホルは1960年代初期の彼のモノクロームの使用において、その装置の形而上学的な残物を破壊する作業に自らを従事させたように思える。
    • ウォーホル『Yellow Close Cover before Striking』(1962)、『Red Close Cover before Striking』(1962)→色彩面の遺産に関する批判的な転倒。(『Dance Diagrams』、『Do It Yourself paintings』と同様)

Readymade Imagery

  • p. 19.
    • ウォーホルが見出した表現とその図表的性質は、ある矛盾から出発していた。その矛盾とは、ポロックの作品において、媒介されない自発的である絵画的な痕跡が形成がされれば、それだけ没個性的な機械化の特性をますます獲得していくということである。
    • 絵画的な痕跡の形成のプロセスにおいて機械的な匿名性の徴候は、絵画特有の結果としての“破壊”を暗示しているように思えるだけではなく、ポストキュビストの反絵画的な戦略の装置とレディ・メイドの概念に歴史的に近接している。→ポロック『Out of the Web(Number 7)』(1949)、『Cut Out』(1949)
    • もし、反芸術的、反作者的徴候がポロックの作品でまだ達成されてないとすると、それに対する応答→ラウシェンバーグとジョーンズの初期から1950年代中頃までの作品。
  • p. 20.
    • ラウシェンバーグとジョーンズが打ち勝たなければならなかった歴史的困難→抽象表現主義絵画は完全に慣例を抹消しただけではなく、“見られ”あるいは“読まれる”ために、自らを局所的に支配的な絵画の慣例の中へと書き込むことを人に要求した。
    • 故にラウシェンバーグとジョーンズはダダイズムの過激な反絵画的遺産の絵画化の計画に取り組んだ。
  • p. 22.
    • ウォーホルの単一イメージの写真によるシルクスクリーンは、単一イメージの連続的反復と同じ程度に、身振りと機械的な痕跡の間の一様な曖昧さを排除している。この曖昧さから、ラウシェンバーグの作品はその緊張(と相対的な因習性)を引き出していた。集中的なレディ・メイドのイメージは、ラウシェンバーグの相対的に伝統的な絵画性と一時的な物語性の空間的なマトリクスとして機能する、合理的構成の均衡を排除した。
    • 写真によるシルクスクリーンの手続きと、単一化と連続的反復という構成的な戦略→絵画的な枠組みの範囲内にとどまることを可能にした。
    • シルクスクリーン→ウォーホルの絵画から、まだラウシェンバーグの伝統的なコラージュの美学が鑑賞者に与えていた連想の遊び、同時的複合的参照を奪い取った。個別化されたイメージは密封されるようになる。つまり、他の全てのイメージから引き離され、または自らの反復に押さえ込まれる。もはや、ラウシェンバーグのより大きなシンタックスのイメージの集合という方法における“意味”や“物語”を生み出すことはできない。
  • p. 23.
    • シルクスクリーンによる写真の痕跡は、絵画の製造過程の単なるトレースである。絵画的曖昧さから写真のイメージを取り出すことは、複製の機械的性質を前面に出すだけではなく、(“芸術的”あるいは“詩的”というよりも)宝石細工的な現実のイメージの情報を強調する。
    • 1963年のBarbara Rose(バーバラ・ローズ)のコメント→「私は彼の図像は攻撃的であると理解している。私はスーパーマーケットで否応無しに見せられているものを、ギャラリーで見なければならないのかと悩まされた。私はスーパーマーケットから逃れてくるため、その経験を繰り返さないようにするためにギャラリーに来たのである。」

Common Iconography

  • p. 24.
    • ウォーホルは鍵となる構成の手法をジョーンズの『Targets』、『Flags』、『Alphabets』、『Numbers』から得ている。それは、一方では際立たせられた描写の象徴的集中性であり、他方では全体的な連続するグリッドの構成である。
    • しかしながら、ウォーホルはジョーンズの奇妙に中立的で普遍的な特徴を持つイコン(icon)を、明確な大衆文化のアイコン性(iconicity)で弱めることを主張した。このアイコン性は、集団的知覚経験のリアルな共通点であると即座にわかる表象のさまざまなタイプである。ジョーンズの『Alphabets』、『Numbers』、『Targets』、『Flags』は平凡であるにもかかわらず、ウォーホルのイメージに比べると突然難解で閉鎖的に見えた。それは日常の経験から離れた特異なオブジェクトのようであった。
  • p. 26.
    • 1963年にウォーホルは、最も有名で(そしてありふれた)魅惑的なスターの写真イメージと最も匿名で(そして残忍な)日常生活のイメージ(交通事故の写真)を並べた。翌年の、FBIの指名手配のポスターから顔写真『Thirteen Most Wanted Men』(1964)は、初期のフォトブースによるセルフポートレートシリーズを補完するものである。
  • p. 27.
    • 無名の顔写真とフォトブースでのポートレート双方へのウォーホルの関心は、専門化した芸術的視覚の最後の残りものさえも破壊した、自動的写真の成果に由来しているように思われる。逆説的に、手先の熟練と技術的な専門知識の正当性を否定している一方で、同時にフォトブースの写真は、絵として表現されるという集団の歴史的な需要を具体化し、即時的表象再現を広く利用できるようにした。自動的ポートレートにおいて、事実上、写真の“作者”は最終的には機械になった(ウォーホルがしばしば述べた欲望)。
  • p. 28.
    • Thirteen Most Wanted Men』は、1964年のニューヨーク博覧会のパビリオンのためにフィリップ・ジョンソンから依頼されたものであった。ウォーホルは行政の欲求を世界に向けて表現したが、検閲にあった(当時の州知事はネルソン・ロックフェラー)。このときウォーホルは、犯罪者の写真をRobert Moses(ロバート・モーゼス)(1888-1981)の写真と置き換えることを提案したが、今度はジョンソンに拒否された。結局、ウォーホルはシルバーのアルミニウム塗料で覆うことで決着をつけた。抽象的なモノクロームの中へと沈黙させられたということを語らせた。

Serial Breakdown and Display

  • pp. 29-30.
    • キンベルスープ缶
      • 1962年のロサンジェルス、フェラス画廊(Ferus Gallery)での個展で、展示されたキンベルスープ缶の数は32個であった。これは当時実際に使用されていた、缶のデザインのヴァリエーションの数によって決定された。ハイアートの展覧会で、作品の数は一見して、ランダム、生産ラインの外的要因、ヴァリエーションによって決定されていた。
      • 絵画の展示方法は、連続的反復の原理、商業的レディ・メイドの図像と同じくらい決定的であった。ここでは、作品は商品のように棚に並べて展示してあった。
  • p. 32.
    • 1966年のレオ・カステリ画廊(Leo Castelli Gallery)での壁紙のインスタレーションが、ウォーホル自身彼にとって画家としての最後の展覧会であると考えていたのは、論理的であった。このとき、『Cow Wallpaper』(1966)と空気と観客の動きで生命が吹き込まれる『Silver Clouds』(1966)は並べられた。これらはモダニズムのもっとも過激でユートピア主義の約束を破壊した。
    • モダニズムのもっとも過激でユートピア主義の約束
      1. 彫刻的オブジェクトを通過した絵画平面から建築空間へと展開すること。
      2. 観客をイコニックな表象再現に結びつきから、自己言及、指標記号の解放のモードへ、参加という触覚的モードへと教育すること。
      3. 同時的集団的知覚の空間のために、イーゼル絵画の個人的な見るモードという制限を放棄すること。
  • p. 34.
    • 制度化され産業化されたハイアート作品の枠内においての過激な身ぶりは、必然的究極的に市場の芸術品を生み出し、ギャラリーでの単なる“絵”に終わるだろという予想に対する、ウォーホルの懐疑的で日和見的な確信が、たぶんレディ・メイドというデュシャンの過激な提案の誤った特性を避けることを可能にした。実際デュシャンは、レディ・メイドの誤った過激性と避けがたい美学化という問題の両方を感じ取っていなかった。
  • p. 35.
    • デュシャンのウォーホルの作品についてのコメント。
      • 「われわれが関心あるところは、五十個のキャンベル・スープをカンバスにもってきたウォーホルのコンセプトなのだ」*6

Reception

  • pp. 36-37.
    • ウォーホルは彼の構成物の中に、20世紀末期の征服者と犠牲者の両方の光景を統一した。企業家的な世界の光景。その徹底した内向性と分離という戦略的に計算された雰囲気は、社会政治的あるいは経済的責任の点から疑問を投げかけること無しに、その作用を継続させることを可能にした。そして、この世界の光景の犠牲者の無気力な視覚、消費者。全面的に切り詰められた個性。この個性はウォーホルの作品において、テーマとしては消去されている彼らの特有の状態を称えている。疎外された生産と疎外された消費の永続的な反復の身振りにおいて構成されたものに切り詰められることで、彼らには批判的な抵抗という次元に向かう僅かな隙間が不足しているのである。

      GG Lab. by GGAO

*1 ロザリンド・H・ウィリアムズ『夢の消費革命──パリ万博と大衆消費の興隆』 工作舎 1996
*2 アンディ・ウォーホル 『ぼくの哲学』 新潮社 1998
*3 ウォーホル、インタビュー『What is Pop Art ?』美術手帖1987年6月号所収
*4 ジョン・ケージ『サイレンス』水声社 1996
*5 ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」、『新しいものの伝統』所収 紀伊国屋書店 1965
*6 ピーター・ジダル『アンディ・ウォーホル』 パルコ出版 1978

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Last-modified: 2017-04-07 (金) 22:06:08