ベンジャミン・H.D.ブクロー(Benjamin H. D. Buchloh)著
(Andy Warhol (October Files)
Annette Michelson(編集)
The MIT Press (2001/12/01)
ISBN-13:978-0262632423
pp. 1-46.所収)
Perry Anderson(ペリー・アンダーソン)(1938-)→「モダニズムの多様性が切り離されたのは、第2次世界大戦……だった。1945年以降、古い半貴族的あるいは農村的秩序とその付属物は消滅した。ブルジョワ的民主主義は最終的に一般化された。それによって、前資本主義の過去とのある批判的つながりは切られてしまった。それと同時にフォーディズムが一気に到来した。大量生産と大量消費は西ヨーロッパ経済を北アメリカの方向に沿って変形させた。そこにはもはや、このテクノロジーが強固にするのがどのような種類の社会であろうかということについて、いかなる疑いも存在することができなかった。つまりその時、圧迫感のある安定の、一体的な工業の、資本主義の社会の環境は整っていた。」
Allan Kaprow(アラン・カプロー)(1926-2006)はこの変化を感じていた。→「もし人がどん底にいるならば、そこでは進むためのたった一つ方向しかなく、それは上であると言われる。この一方向においてこのことは起こった。というのは、1946年に芸術家が地獄にいたとすると、現在はビジネスの中にいる。……そこには、モダンの“夢想家”が彼の相関者、“順応主義者”よりクリシェだという可能性があり、そしてどちらも正当ではないという可能性がある。」
絵画的な痕跡の形成のプロセスにおいて機械的な匿名性の徴候は、絵画特有の結果としての“破壊”を暗示しているように思えるだけではなく、ポストキュビストの反絵画的な戦略の装置とレディ・メイドの概念に歴史的に近接している。→ポロック『Out of the Web(Number 7)』(1949)、『Cut Out』(1949)
1963年にウォーホルは、最も有名で(そしてありふれた)魅惑的なスターの写真イメージと最も匿名で(そして残忍な)日常生活のイメージ(交通事故の写真)を並べた。翌年の、FBIの指名手配のポスターから顔写真『Thirteen Most Wanted Men』(1964)は、初期のフォトブースによるセルフポートレートシリーズを補完するものである。
『Thirteen Most Wanted Men』は、1964年のニューヨーク博覧会のパビリオンのためにフィリップ・ジョンソンから依頼されたものであった。ウォーホルは行政の欲求を世界に向けて表現したが、検閲にあった(当時の州知事はネルソン・ロックフェラー)。このときウォーホルは、犯罪者の写真をRobert Moses(ロバート・モーゼス)(1888-1981)の写真と置き換えることを提案したが、今度はジョンソンに拒否された。結局、ウォーホルはシルバーのアルミニウム塗料で覆うことで決着をつけた。抽象的なモノクロームの中へと沈黙させられたということを語らせた。