*Camouflageのメモ [#uda4de7c]
ニール・リーチ(Neil Leach) 著
The MIT Press (2006)
ISBN-13: 978-0262622004
SENSUOUS CORRESPONDENCE †
**p. 34. †
- ベンヤミンとアドルノのミメーシスの違い、その1。↓
- ベンヤミン→言語哲学、言語に沈降している。
- アドルノ→美学理論。
- (qwq)「芸術は模倣的態度の隠れ処にほかならない。」*1
- (qwq)「模倣的衝動は芸術作品を動かし、芸術作品のうちへと統合されて芸術作品を再び解体するものであり、無力で言語を欠く表現にすぎない。模倣的衝動は芸術として客観化されることを通して言語となる。……芸術作品は自らの構成要素を統合しつつ生成することによって、言語に似たものになる、つまり言語作品であって言葉を欠いている文章となる。」*2
- (qwq)「このような表現の総体が芸術の媒体としての言語とは根本的に異なる、芸術の言語特性といってよい。……芸術の真の言語は言葉を欠くもの」*3である。
- (qwq)「それは意味を欠く文字、より厳密に言うなら意味が隠されているかあるいは覆われている文字にすぎない。」*4である。
- ミメーシスは意義や表象再現とは関係がない。
- ミリアム・ハンセン→(qwq)「アドルノにとってミメーシスはサインや指示対象の間の関連とは関係がない。つまり、それは表象再現のカテゴリーではない。むしろ、主体的経験の状態を目的としている。この状態は、認識力の言語習得以前の形式であり、芸術作品の客体として与えられ、作品の構造の密度によって呼び出される。」
- 言語の不在かもしれない。
- (qwq)「芸術は自然を模倣するものではなく、それに代って自然美を模倣するものとなる。自然美は自らが解くことなしに示すアレゴリー的意図とともに、つまり意味ではあっても指示的な言語の場合とは異なって、自己を対象化することがない意味とともに深まる。」*5
**p. 35. †
- もし文学の領域に模倣の衝動を見るならば、技術的なものではなく詩的なものの中に見出されるだろう。ジョイスはコミュニケーションの言語を超えて純粋な模倣言語を作り出した。
- (qwq)「ジョイス以後の散文【中略】は伝達言語を模倣言語に変えるために努力している。」*6
- ベンヤミンとアドルノのミメーシスの違い、その2。↓
- ベンヤミン→ミメーシスと言う用語は大部分が受動的なもの。その本質は世界に中で意味を見つけるためのメカニズムを構成する。
- アドルノ→ミメーシスはより能動的、創造的性格を示す。
- ミメーシスは世界と同一化する潜在性も可能にするだけではなく、美学的認識の時に生き生きした燃え上がる経験もまた提供する。
- ゲバウアとヴルフ→「能動的受動性(active passivity)」。美学的身振りのエロティックな本性。
- ベンヤミン→類似(similarity)の存在の発見によって、衝動における意味の発見を強調した。
- アドルノ→美学的生産物を通しての新しい類似(similarity)の創造よって、衝動における意味の発見をした強調。→私たちが世界の中に場所を発見するかもしれない。
- ベンヤミンとアドルノのミメーシスの違い、その3。↓
- 身体との繋がりに関しての違い。
- アドルノ→ミメーシスを感覚的なもの、子供時代の"触覚的な、うっとりさせる、寄り添うような、誘導するような"世界と関連付けていた。それは概念的なものではない。
- (qwq)「主観的に創造されたものとその他者、つまり措定されたものではないものとのあいだに非概念的な類似を見出す」*7
**p. 36. †
- (qwq)「概念的思考は特殊なものを普遍的なものに包摂し、特殊なものの独自性を、ひとつの一般的ないし本質的原理の標本なり見本に暴力的にしてしまう。逆にミメーシスは、互いに違う特殊なものどうしの親和的な関係性、共感的・同情的で温和な関係性を前に出す。その場合の特殊なものたちが、主体/客体という二元性の二極の役割に振られることはない。」*8
- ベンヤミン→ミメーシスは"非感性的な類似"。もし感覚的なものが含まれるとしたらそれは概念的である感覚的なもの。
- アドルノとベンヤミンのミメーシスの理解は奇妙に異なっている。もしベンヤミンの非感覚的で概念的なミメーシスがアドルノの非概念的、感覚的ミメーシスのための道を前提とし、準備するものだとしたら、これら二者を和解させることが可能かもしれない。
- ベンヤミン→"建物、家具、布地"への親近感を形作るのは言葉の純粋な言語的振舞いを通じてである。
↓
- 知性的なものは感覚的なものとの関係をでっち上げることができる。→このときの理念的なもの(“非概念的な類似”)は肉体的(corporeal)であり、子供の初期のミメティックな振舞いは明らかに身体的な活動である。
**p. 37. †
- アドルノにとってミメーシスは美学的表現において同化(assimilation)の生き生きとした瞬間に言及している。→愛の考えに近い。
- ゲバウアとヴルフ→(qwq)ミメーシスは「他人に対する共感、思いやり、同情、そして愛の前提条件である。それは模倣(imitation)、同化(assimilation)、降伏である。それは、他人の感情を経験することのコピーへと人を導く。このときそれらを対象化すること、あるいは、それらに対して無感覚になることはない。」
- (qwq)「こちらが弱味を見せてもそれに付け込んで強がったりしないような相手だけが、本当にお前を愛しているのだ。」*9
- ゲバウアとヴルフ→他者の中に自分自身を見出す可能性、鏡の中の自分自身に他者を見出す可能性。
- このことはナルシスティックな閉じたものではなく、自律性と自己制御を弱体化させることによって、エゴを弱めるための相互関係と交渉のプロセスである。
THE MIMICKING OF MIMESIS †
**p. 38. †
- アドルノにとってミメーシスは子供の振舞いにおける表現に見出される。しかし、これは文化によって抑圧されている。
- (qwq)「文明に眩惑されたものたちが、タブー化された彼ら自身のミメーシス的性向を経験するのは、自分たちとは別の者たちのもとにみられるような、しかも合理化された環境の中では孤立した残余、恥ずべき落ちこぼれとして目立つような、そういう多くの仕草や行動様式においてである。だが疎遠なものとして突き離されたものは、じつはあまりにも身近なものである。文明によって抑圧された直接的なものは、心の触れ合いとか意気投合とか慰めや励ましといった身振りをつうじで人の心に染み込んでくる。」*10
- 子供の振舞いに見られるミメーシスが大人に現れるとき→自己と他者の結合という前-鏡像段階。
**p. 39. †
- ミメーシスの活動は他者への接近を構成するが、完全に他者と同一化することはない。
- ミメーシスは世界のある還元的道具化に挑む。このことは芸術において明らかである。
- ミメーシスは同一性の思考に反対するのに役立ち、純粋な経験のための空間をまだ残している弁証法的緊張関係において、同一でないことを生かしておく。→芸術を文化産業と区別するもの。無批判な調和という文化産業の傾向に対して、芸術は批判的は不調和を保ち続ける。
*p. 40. †
- ミメーシスと単なる共感の違いを見分けるには子供の姿に戻る必要がある。
- 子供の不機嫌の中に、私たちは独裁者の潜在的暴力的攻撃を認めるかもしれない。
- (qwq)「ファシズムの現実において私の少年時代の悪夢は正夢となったからである。」*11
- ここでアドルノは子供の想像力の可能性が、良い芸術の顕著な特徴としての抑圧されていない全体性という、その条件のための基礎のうちにあるだろうということを強調している。
- ここで、ミメーシスをアドルノとホルクハイマーが「ミメーシスの組織的操作」*12と呼ぶものと区別しなければならない。
- 「ミメーシスが自己を環境に似せるものだとすれば、虚偽の投影は自己に環境を似せる。前者にとっては、外的なものが、内的なものの順応するモデルとなり、疎遠なものが身近なものになっているのに対して、後者は発現しようとする内的なものを外的なものへと移し変え、もっとも身近なものに敵の烙印を押す。」*13
- 疎外の社会に基づく資本主義において、コミュニティの神話は、これは外国人恐怖症と不寛容を引き起こす恐れがあるが、ミメーシスの擬態の潜在的に暗い面を明らかにする。
- ミメーシスは常に開いており、ミメーシスの擬態は常に閉じている。
**p. 41 †
- ミメーシスは他者に対して降伏することであるが、完全な降伏では決してない。フロイトのジョークについての分析(私たち自身を他者として想像することを可能にするが、同時に私自身を保ちつつ、他者になり、笑う。)のように自己批判を維持しており、無反省な全体主義へと陥ることを避ける。
MIMESIS AND ARCHITECTURE †
**p. 42-43 †
- アドルノの建築の次元でのミメーシスの議論↓
- (qwq)「象徴性への志向はフロイトの考えによると、飛行船のような技術的フォルムと結びつく傾向があるという。アメリカの研究である現代の大衆心理学では、それは飛行船ではなく、とりわけ自動車だといえよう。合目的フォルムはそれ固有の目的を語る言語である。生きとし生けるものは模倣の衝動の力によって、周囲のものと同化しようとする。」*14
- アドルフ・ロース『装飾と犯罪』(1908)
- ロースは装飾的なものを機能的なものから区別した。私たちは装飾を拒否し、機能を歓迎しなければならない。装飾は原始的社会では許されるがエロチックで子供じみた行動である。
- (qwq)「文化の進化とは日常使用するものから装飾を除くということと同義である。」*15
- 装飾は労働の浪費である。今日のオブジェクトは誠実で単純であるべきだ。
- アドルノはロースが非弁証的であるために非難している。アドルノがによれば、一切の芸術的感覚をそぎ落とした純粋に機能的なものは存在しない。
- (qwq)「美的なるものの対極としての科学的に純粋な合目的性なるものもない。」*16
- よって芸術と機能は弁証法的に見られなければならなず、美学のすべての形式は社会機能のためと認識された。
- 実際、建築において機能的であるとされた形態は明らかに機能的ではなかった。→フラットルーフ。他の領域から借りてこられた船や巨大サイロといったもの。
- したがって、機能的であるということはしばしば単なる美学であった。そして機能主義は洗練された見せ掛けであった。
- アドルノ→(qwq)「不信感が、様式を否定するものが人の心の中にあるのである。」*17
**p. 44. †
- アドルノ→(qwq)「ロースが装飾の中に、合理的な実体化の作業とは相反する模倣の衝動を感じとっていなかったとしたら、ロースのこのような装飾への憎悪は理解し難いだろう。その模倣の衝動とは、おもてに表わすことを否定する快楽原則と似て、悲しみや憤りを表現する場合、それを直接表現することを否定する、そのような表現であり、ロースは装飾にこれを感じとったのであろう。」*18
- ロースにとっての装飾→退廃的な快楽、冗長的な表現としての象徴主義。
- アドルノによると、芸術を理解する鍵は、模倣の衝動の観点から正確に芸術を見ることである。外部の形態を吸収しようとする模倣の衝動を通して、それらの外部の形態を象徴的に具体化し、己の表現とする。さらに、彼らが生産するオブジェクトにおいて再統合される。
- アドルノ→(qwq)「実用的なフォルムで、使用するに相応しいことは別として、象徴性をも獲得しないものは殆ど無いであろう。」*19
- 芸術は象徴として社会的機能に達する。しかしこの芸術の社会機能は文化の状態とつながっている。→装飾を通して芸術は特定の時代に答える。時代の様式が移行するときのみに、装飾が過剰なものとして現れるようになる。
- アドルノ→(qwq)「とうの昔の生産方式で作られたものに付着した傷跡」*20、「まず象徴であり、次に装飾と見えるもの、最終的には過剰な余計なものと映るもの」*21
- アドルノの議論によると、刺青はロースが主張したような、なにか退廃的で冗長的な余分なものではなく、ミメーシスの作用に反響する重要な社会的装置である。刺青は、己の文化だけではなく社会グループの他のメンバーとの象徴的な繋がりを提供する社会的同一化の形式である。
**p. 45. †
- アドルノ→(qwq)「生きとし生けるものは……周囲のものと同化しようとする。」*22
- ミメーシスは私たちの周囲とのあいだに象徴的な関係を築く。私たちは無意識に己自身を周囲に読み込む。ミメーシスはオブジェクトとの無意識的な同一化である。それが自動車、飛行機、橋など何にでも同化する。
- 周囲に反映されている私たちの価値を見るとき、それはナルシスティックな刺激を与え、主体/客体の区別を壊す。そして断片は全体の部分とみなされ、個人は調和的全体性の中へと差し込まれる。
- 建築はミメーシスの作用のための容器とみなされる。建築のまさにデザインにおいて、建築家はミメーシスのコンセプトにおいて具体化された世界との、相関的な一致を強調するだろう。
MIMETIC DESIGN †
- ミメーシスはアイテムのデザインとの関係、ユーザーとアイテムの関係において作用する。
**p. 46. †
- この関係において想像力は決定的な役割を果たす。
- ロースは「純粋な、明快な構造」*23を称賛し、想像力を悪く言った。アドルノは対照的に、想像力から“働きかけられる”建築を求めた。(アドルノ)「想像力とは、これに働きかけ、これからより多くのものを引き出すことである」*24
- 想像力は素材を呼び起こし、そしてそれらに答える。しかし同様に、建築の想像力は空間に目的を与える役割を果たす。
- アドルノ→(qwq)「目的と空間と素材は相互に内的に関わりあっているのである。……このことは、ある特定の目的が如何にして空間となりえるか、如何なるフォルム、そしていかなる素材において可能か、問うことになる。答えは、それぞれのモーメントは相互に関連している、ということだ。となると、建築における想像力とは、目的をとおして空間をイメージし表現する能力、目的を空間たらしめる能力であることとなろう。目的にしたがってフォルムを形成する能力である。逆にいえば、そうしてはじめて空間と空間の感覚とは、想像力が合目的性のなかに沈殿してしまったような貧弱な合目的的なものより、より豊かなものとなり得るのである。想像力は、自らの存在のよりどころともなっている内在する目的と関連といったものを吹き飛ばしてしまうのだ。」*25
- 目的は建築が如何にあるべきかを回復する鍵となる要素であり、使用価値よりも交換価値に特権を与える条件から建築を切り離す。私たちは子供が物を見るように建築を見る必要がある。アドルノ→(qwq)「もっとも身近なもの、自分を助けてくれるもの、純粋に利の関心として」*26
- アドルノ→(qwq)「すると世界の物質性という苦しみから解放されるのは人間のみではなく、同様にものもまた自己の目的を見出すや、それ自体の物質性から解放されるのではあるまいか。」*27
- アドルノ→(qwq)「ヒューマンな建築とは、人間を実際よりも美化するものだ。」*28
**pp. 47-48. †
- そこにはミメーシスの美学というものはない。というのは、ミメーシスが具体化されるところである美的表現は象徴の形式として作用し、また必要性は時代によって変化する。ミメーシスの形式を描くことよりもむしろ、建築家の心情(mind)におけるある感覚(開放性、反応性、共感、しかし同時に批判的不協和に対して注意を怠らない感覚)を強調するのが良い。→このような感覚は感覚的一致(sensuous correspondence)、想像的、直感的な建築を生み出す。それは啓蒙合理主義の建築の厳しい構造から自由になる。
- このような建築は、この建築を経験する人たちが彼ら自身を世界に刻み込み、そしてより生産的に生きることを学ぶだろうことを通じて、レンズあるいはメカニズムの役割を果たす。
- アドルノは、ミメーシスのような言葉に機能性と美の融合をがあると提案しているようだ。この機能それ自体は模倣的にデザインの中に吸収されていなければならない。装飾に関して機能を強調することはまさに芸術の本質であると同時に、機能を持たない装飾は真の装飾であるはずがない。建築は自由な夢であるはずはなく、単に目的に還元されただけのものであるはずもない。
- アドルノ→「偉大な建築は、純粋に自己の目的のうちから目的を建築の内容として模倣的にいわば表しているところにおいて、その超機能的言語を迎え入れている。シャルン音楽堂は美しい。それはこの音楽堂がオーケストラ音楽のために空間的に理想的な条件を作り出そうとして、オーケストラ音楽に似たものとなっているが、音楽を頼り音楽を借用するようなことはしていないからなのだ。この音楽堂はその目的が音楽そのものとして表現されることによって、たんなる合目的性を超越している」*29
- この機能の表現は、物の世界に属する機能の手段的意味の限界を超えている。実際、アドルノの機能の考えは社会的機能の前提とされているようである。また、実際の空間的実践とプログラム的使用に対する認識は少ない。その上、機能性自体と機能性の美学の間に引かれた区別がある。機能的に見えるものは機能的であると証明できないかもしれないと同時に、機能的であるものは機能的に見えないかもしれない。それゆえ、機能性と美学、機能性の表象と機能性自体の間に関わりがなければならない。少なくとも、機能性の基本的な部分とはオブジェクトは機能的に見えなければならないということ、このことは知られなければならない。