GG Lab. by GGAO

Domesticity at Warのメモ




Domesticity at War.jpg

ビアトリス コロミーナ(Beatriz Colomina)著
Actar (2001/12)
ISBN-13: 978-8496540118

Chapter1 1949

  • p. 31.
    • 安定した囲い込みの形式から軽量で、取り外し可能で、無限に配置を変えられる格納システムへのイームズの建築の置き換えは、プロダクトデザインと消費可能なイメージへのより一層の過激な置き換えにおける第一歩にすぎない。この格納システムはしつこいほどの家庭への愛着のための、そして世界を魅了した置き換えのための舞台装置として振舞うのである。まさにイームズ夫妻の住宅のものすごい軽快さは英雄的な建築家の姿を蝕む。不安定でさえあるその精巧さは、実在感のある物から点滅する束の間のイメージへのずれを容易にする。建物としての建築は巧みに作られたイメージとしての建築に取って代わられる。これは物理的な建造物を置き忘れることを意味しない。反対にイームズ夫妻は、構造からイメージへ、そしてイメージから構造を形作る熟練した技術者であった。
    • チャールズ・イームズはBilly Wilder(ビリー・ワイルダー)(1906-2002)のもとで働いていた→ワイルダーはひとつのイメージを生み出すという唯一の目的のための構造を作っていた→イームズ夫妻の建築について考えることは、映画との驚くべき密接な関係について考えることである→ハリウッドの理論が端的に現れている
    • すべての一般人がまるでフィルムに収められている、収めれれようとしているかのように振舞うために、生活自体が絶え間のない広告それ自体として見られている。
  • p. 33.
    • イームズの最後の建築の仕事は1972年の『ワイルダー邸』であるが、実現していない。イームズ夫妻はもはや建てない建築家になった。チャールズ・イームズ→「私は自らを機能的には建築家だと考えています。私は、周りにある問題を構造の問題として見ることをやめられません。構造は建築なのです。良い本の表紙がそうであるのと同じように、良い映画は構造を必要とします。」

Chapter2 DDU at MOMA

  • p. 73.
    • その住宅【ダイマクション・ハウス】のこの軍事化は、“シェルター”としての住宅というフラー【バックミンスター・フラー】の考えと一致している。彼は繰り返し「“SHELL<scyld(shield)TER<trum(firm)”つまり露出あるいは危険から守り(covers or shilds)、安全、保護、避難の場所」としてのその言葉の語源的意味について言及していた。
  • p. 74.
    • ダイマクション・ハウスは実際、軍事と家庭の願望を統合する最も成功したフラーの試み であった。そして、その家は戦争遂行の重要な一部となった。

Chapter5 X-Ray Architecture

1

  • pp. 146-148.
    • 水着を着た女性のX線写真。
    • 20世紀半ばのアメリカでは、全国民をX線撮影するということは一般化していた。→身体というプライベートな空間をパブリックな検査のもとに置く。
    • フィルムはこの身体の露出を、ガラスの家という家庭(domestic)空間を露出することと関連づける。
    • 注目すべき点→X線検査において、彼女が異常がなく健康であるということよりも、この検査によってガラスの家の中にいることが怖くなくなるだろうという主張が当時あったこと。
          ↓
    • ガラスの家→監視と健康の新しい形式というだけではなく、恐怖の新しい形式でもあった。

  • X線検査は1920年代までにサナトリウムで結核の検査に取り入れられ、1930年代までには市民の定期的な検査が始まった。→最もプライベートな身体の内部が学校や軍隊で管理された。
  • 「Highlight and Shadows(p. 147.)」←国民運動の一つ
  • 20世紀はじめの、結核についてまわる軍隊のメタファーは一般的であった。→「我々の差し迫った危険とは、我々の身体内部で知らぬ間に侵攻する勢力であり、これらを制圧することは、長期的には、より大きな戦場での勝利をアメリカ合衆国にもたらす(p. 147.)」
        ↓
  • 結核菌が肺を突き刺し穴をあける原因となるイメージ=日本兵
  • 「X線検査が明らかにすることとは戦争の被害だと理解された(p. 148.)」

  • 戦後の大衆に対する結核のX線検査はデパートや工場、学校、郊外の通り、市場などで行われ、新聞やラジオでキャンペーンも行われた。→全国民の監視のメカニズム
  • 今日では、取締りのメカニズム←空港などテロの標的となる場所での荷物のチェック。
        ↓
  • これらは我々の建築の意味を変えた。20世紀の建築は結局は監視であると言っても言い過ぎではないだろう。

2

  • pp. 148-157.
    • X線の監視のテクノロジーとモダン建築の展開は並行したものだった。
    • ペヴスナー、ギーディオンはグロピウスの『ファグスの靴工場』のコーナーを取り上げ、他の建築史家はガラスの壁を取り上げた。
    • グロピウスの『ファグスの靴工場』とWerkbund Exhibitionでの工場建築の写真→コーナーから眺め、、まるで骨のように白く塗られた内部構造が露にされている。残像のイメージの効果
    • X線撮影のようなガラスの建築の例は無数にある。コルビュジェのプロジェクト『Cartesian Skyscraper』、グロピウスの『バウハウス校舎』…
      20世紀はじめに無数のガラスの実験があったとしても、それは前衛建築家の秘伝的なものであった。しかし、50年代までにはX線撮影と同じように一般化した。
    • 家だけではなく、家のなかにさまざまな透明なものが見られるようになった→パイレックスの調理器具、サランラップ、オーブンの扉…。
    • ガラスの壁はX線のように支配の道具である。
      • コミュニティに対して順応を保障するかのように外部に家を曝す。
      • 郊外の家(すでにオープンプランによる流動性があった)では内部の警備が可能になった。→子供の様子を見たり、訪問者や配達人の監視
    • ファンズワース邸
      • ファンズワース女医の証言「ミースは"自由な空間(free space)"について語りました。しかし、彼の空間はひどく固定的です。家の中にハンガー一個でさえ、外から見てそれがあらゆるものにどのような影響を与えるかを考えずにを置くのことはできません。あらゆる家具の配置が大問題になります。なぜなら、家が透明なのです。X線撮影のように。」
      • ミースのX線のメタファーは偶然ではない→フリードリッヒ・シュトラーゼ高層ビル案(1921)ガラスの高層ビル案(1922)→「皮と骨の建築」「スケルトン」
            ↓
      • 美学以上のもの。医学的言説と切り離されない。
      • ファンズワース女医の証言「すでに土地での噂があります。それは結核サナトリウムです。」
  • モダン建築は結核を考慮に入れないでは理解できない。→建築家やその推奨者はサナトリウムでの生活のような生活を説いている。
    • Sigfried Giedion(ジークフリード・ギーディオン)(1888-1968)の1929年の本『自由な住居(Befreites Wohnen)』のサブタイトル「光、空気、開口」→サナトリウムのスローガンのようである。
    • この本の表紙の家→病院とスポーツ。
    • サナトリウム→体操、日光浴、テニスのイメージ→家:回復期の患者がテラスでゆっくりくつろぐイメージ。
  • モダンの建築家だけが健康と運動のイメージを強調していたのではなく、建築がそのようなものとして理解されていた。→一種の医療機器、身体を保護し、強化するための装置。
  • 都市計画も上記と同様であった。例えばTony Garnier(トニー・ガルニエ)(1869-1948)の『工業都市』
    • プランの一番高いところを占める病院施設の日光浴治療のための建物。
    • 中世の大聖堂に取って代わったようなスポーツセンター
  • 健康は信仰の新しい形式となった。
  • Robert Koch(ロベルト・コッホ)(1843-1910)によって結核菌が発見されるまでの標準的な医学書→「好ましくない気候」、「あまり運動しない屋内生活」、「不完全な換気」、「日照不足」が結核の原因とされた。
  • Susan Sontag(スーザン・ソンタグ)(1933-2004)
    「結核患者は環境を変えることで病状が好転する。──いや、治るとされる。結核は湿潤性で、湿っぽいじめじめした都会の病気であるとされた。体の内部がじめじめしているから(「肺の中の湿気」とは愛用された表現である)、乾かさなくてはならないというわけだ。」*1
  • モダンの建築家はまさにこのような環境の変化を供給することによって、健康を提供した。→太陽、光、換気、運動、ルーフテラス、衛生、白さ。→医療機器
  • 結核と病気に対する恐れについての現代的信仰の周りに組織化された。
  • コルビュジェ。「自然の大地」→「リューマチと結核を配給するもの」、「人間の敵」→ピロティ
  • 「もしも家が真白ならば描かれた図は誤りなく浮き上がり、…一切はそこに浮き上がり、白地に黒の文字は絶対的であり、率直でしかも忠実である。そこにもし不潔なもの、または悪趣味なものを置くならば、それはたちどころに人の目を刺激する。いうならば美のX線であり永久の審判廷であり真理の眼である。」*2

3

  • pp. 160-164.
    • アメリカでもヨーロッパのように、結核菌の理論は家を戦場に変えた。
    • 家に訪れた看護師は病人の部屋から壁紙、ひだのあるカーテンを取り除くようにすすめ、水漆喰を塗るようにすすめ、床を磨き上げるようにすすめ、窓を開け放ち、古い家具をきれいなベッドやシンプルな椅子と取り替えるようにすすめた。→要するに内部をモダン化すること。
    • 家が戦場ならば女性は、軍司令官、科学者、医者である。
    • 家は汚れ、埃、とりわけ細菌がない状態が入念に保たれた、女性の研究所。
    • ヨーロッパのサナトリウムの集約化された組織的な建物と異なり、アメリカにおいてのそれはテント。
      • Edward Livingston Trudeau(エドワード・リビングストン・トルドー)(1848-1915)によってはじめられた。
      • テントには寝るためのポーチ、座ってくつろぐためのポーチ、新鮮な空気による結核治療のためのガラスで囲まれたベランダが付属。→これらが住宅に広がっていった。
    • 住宅がサナトリウムから取り入れたもの。
      • 大きな窓
      • 清潔な表面に、清潔な線→装飾、襞のあるカーテン、絨毯、邪魔な物がないことを意味する。
      • 白い壁は衛生についてだけではなく、居住者の心の健康に良い影響を与えると考えられた。→ヨーロッパのアヴァンギャルドがアメリカに到着する前から、モダン建築の十分なイデオロギーが存在した。
    • ヨーロッパのアヴァンギャルドと融合したアメリカの建築
    • 戦後、ノイトラは他の建築家と同様に、20年代後半と30年代の身体的健康から精神、心理的健康へと最大の関心事を変えた。←Sylvia Lavin(シルビア・レイヴァン)『Form Follows Libido: Architecture and Richard Neutra in a Psychoanalytic Culture』
          ↓
    • 20世紀前半の大衆雑誌のライターや建築家→家での病気の予防、体の健康を強調→新しい生活様式と新しい身体。19世紀文学で美化された弱々しい結核患者の身体は突然時代遅れとなった。
    • 第二次世界大戦続く二十年間において、理想的な家には心理的幸福が含まれた。現在では「家族の心理的健康の防波堤(Clifford Edward Clark)『The American Family Home, 1800-1960』」と理解されている。
    • McCALL's Book of Modern Houses』(1951)by Mary Davis Gillies、(McCall's)(マッコールズ)
      • モダン住宅のための入門書をうたっている。
      • 「以下の三つの問いに答えることは重要である。
        私は何者か。
        私あるいは私たちは生活に何を求めているのか。
        私あるいは私たちは家族のために何を求めているのか。」
      • 「今日の住宅においては、純粋に物理的要因よりも心理学的な要因のほうがある程度優先される。」
    • 1950年代に入って結核は」管理され始めた。50年代半ばに当時副大統領のRichard Nixon(リチャード・ニクソン)(1913-1994)によって「National Mental Health week」(国民精神衛生週間)がはじめられた。
          ↓
    • 突然、住宅は新しい視点から見られた。キッチンでさえ衛生の問題よりも心理的な問題とされた。→非常に公共化され、健康へと誘導する特性ののあるモダン住宅が心理的な領域へと拡大された。
          ↓
    • しかし、モダン住宅自体が心理的な問題を作り出した。→すでにX線には慣れていた。しかし、ガラスの家が恐怖の源泉としての可能性があった。

4

  • pp. 164-169.
    • ガラスの家はX線と同じ理由で恐怖を作り出した。
    • Bernard Rudofsky(バーナード・ルドフスキー)(1905-1988)『Behind the Picture Window』(1955)(『裏から見た現代住宅』彰国社)→モダン住宅ではバスルームを使うわずかな貴重な時間に一人で考え事ができる。
    • 女性誌の報告→あらゆる人、テレビ、ラジオの騒がしさから逃れる自分のための空間がある人は、精神科医にかかる必要はなさそうである。また離婚もしそうにない。(戦後、離婚率は急上昇した。)
    • オープンプランが家内部の個人のプライベート空間を取り払っただけでなく、ピクチャーウィンドーやガラスの壁がパブリックな眼差しに全てを曝す。
    • ファンズワース女医の証言。
      • 「真実はこうです。四枚のガラスの家の中で私は、いつも警戒してうろつき回る動物のような気がします。いつも落ち着きません。夜でさえもです。私は四六時中見張っている監視員のような気がします。」
      • この家は彼女の身体に対する自己意識を形成する。「私の身長は6フィートですが、私の頭が体なくなって仕切り越しにさまよっているように見えることがないように、着替えができれることを望みます。」彼女は5フィートの高さの仕切りに隠れることさえできなかった。
    • 「私が眼すら、姿すら見ていない誰かによって自分が見られていると感じることもあるからです。他者がそこにいるかもしれないことを私に示す何かがあれば、それだけで十分です。例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かいると私が思うだけのいわれがあれば、その窓はその時すでにまなざしです。こういうまなざしが現れるやいなや、私は自分が他者のまなざしにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違ったものになっています。しかしこういう状況は相互的なものですから、こういう状況においてはその他者もまた、私が自分が見られていることを知っている対象であることを知っています。」*3

5

  • pp. 169-177.
    • Dan Graham(ダン・グラハム)(1942-)『Alternation to a Suburban House』(1978)
      • 戦後の郊外生活の光学的な構造物。
      • 家の中央を横切る大きな鏡。→通行人は感光され家に吸い取られ、装飾や壁紙の一部として組み込まれる。彼らは自分自身を内部に、しかしまた、今では内部の一部となってしまった外部に見るだろう。
      • この家の住人は自分自身を外部に見るだろう。→家庭的な配置が鏡の中では雲、芝生、他の家のファサードに囲まれた屋外の部屋のようであるため。
      • 通行人と住人は鏡の中の同じ入り組んだ空間を共有している。
    • ミースの『バルセロナ・パビリオン』→ガラスの反射に雲、空、木々が自分の背後に映っているのを見る。外部にいながら、内部にいる自分を見る。
    • 当時、『バルセロナ・パビリオン』のこの効果に気づいたものはほとんどいなかった。20世紀で最も影響力のあった建物は「誰にも」見られていなかった。→ヴァーチャル・アーキテクチャー
    • 素朴な訪問者と地元の記者は気がついていた。→「ミステイアス」な効果「なぜなら、これらガラスの壁のうちのひとつの前に立っている人は、鏡のときのように反射している自分を見るが、この背後に移動してみると、そのときは外部が完全に見えるからだ。」
    • 1947年のフィリップ・ジョンソンによるMOMAでのミースの展覧会の影響で、『バルセロナ・パビリオン』は1950年代にあらゆる建築雑誌に登場した。透明性崇拝の良い例として、20世紀で最も美しい建物として認められた。
    • ガラスの建築は1950年代に雑誌のイメージを通して郊外にも作られた。
      • ピクチャーウィンドーはミース、ライト、ノイトラの住宅においては景色を見るためのものであった。
      • トラクト・ハウス(団地開発型戸建て住宅)では「外で起きている何かを見るためのもの」(ポピュラックス『Populuxe: the Look and Life of Midcentury America』Thomas Hine(トマス・ハイン))だった。
      • トラクト・ハウスでは道路を挟んで同じ家が向かい合っている。鏡、アイデンティテー化のスクリーン。→郊外では広告やテレビ番組を見て行うのと同じように、近所を見て振る舞いや消費の仕方のための手掛かりを得た。
    • Dan Graham(ダン・グラハム)『Video Projection Outside Home』(1978)
      • 家の前に置かれた大きなスクリーンに、家の中で家族が見ているTVが映し出されたいる。
      • 1950年代にTVがパブリックな領域をプライベートな領域に持ち込んだとするならば、ここではTV番組の選択というプライベートがパブリック化されている。
      • 建築の中でヴィデオ*4は窓として鏡として同時に機能するだろう。しかし、この効果と機能を覆す。
    • 戦後、家にTVのための空間を作らなければならなかった。誰でもTVが見れるようにリビングルームが再配列された。
    • テレビの時代において、プライバシーはない。「An American Family」。アメリカのドキュメンタリー番組。番組内で一組の夫婦が離婚したが、妻は有名人になった。→誰でもスターになれる。
    • ミースの『レイク・ショア・ドライブ・アパートメント
      • まるで郊外住宅を積み重ねていったようである。郊外の住宅が都市に持ち込まれた。
      • 空中に吊るされたガラスの家。その壁は全ての部屋から湖のすごい眺め可能にし、同時の二棟が互いにディスプレイとなる。夜は多重化したシアターとなる。鏡。
      • 最初の住人の証言のひとつ→「私は完全にくるまれているように感じます。思っていたほどには露出されていません。家具もちゃんと納まっています。」
    • グラハム「私は、しばしば対(double)的に思考しています。」
    • Public Space/Two Audiences』(1976)
      • 世界博覧会などでは、パビリオンで商品が展示されるが→観客を展示すること。観客は自分自身を商品としてみる。
    • ミースとグラハムはパビリオンのアイデアでつながる。
      • グラハム『Two-way Mirror Cylinder Inside Cube and a Video Salon』(1991)
      • ミースは『バルセロナ・パビリオン』の設計を依頼されたとき、何を展示するのかをたずねたが、「何も展示しないつもりです。」、「パビリオン自身を展示します。」といわれた。→伝統的プログラムの不在。展示についての展示。→見ることの新しい方法。
      • 自分自身にだけ出会う、反射・反省の空間。
      • グラハムは単にミースのような見かけを受け継いだのではなく、見る行為をむき出しにすること、自分自身と世界を見る新しい方法を受け継いだ。
            ↑
    • 建築家がX線撮影に惹きつけつけられた点。→単なる身体のイメージという以上に、それは想像された身体のイメージ。
    • X線は内部だけを見せているのではない。外部のヴォリュームが影あるいはボヤケとして見ることができる。→X線写真を見ることは、眼が空間を通り過ぎながら身体の表面を突き抜けるように感じる。
    • ミースの場合、ガラスはけっして完全に透明ではない。→建物の外の境界を感じ、またその境界を眼が越えるのを感じる。
    • モダン建築は自らを露出するが、全てをそうするわけではない。むしろ、眼に呼び掛けながら露出を演じる。医療技術の断片のようにただ振舞っているのではなく、自分自身と居住者、そして外から見ている人を見渡している。
          ↓
    • ガラスの箱は冷戦時代における防御設備の究極の断片。絶え間ない外部の監視。地下に埋められたコンクリート・シェルターと対照的に振る舞う、脆弱な偵察装置。

6

  • p.177-191.
    • ルイス・カーン→「ガラスの家は驚くべき建物である。なぜなら、それはあらゆる人々の心という秘密の奥まった場所にある当時の思考を的確に提示していた。モダン建築が求めていたものの像をもたらした。」→イメージとしての家、あらゆる人々の心の中にあるものの写真、物理的形式においての夢。
    • ガラスの家は透明な家という20世紀の古い夢の実現を表している。
    • フィリップ・ジョンソン『ガラスの家』(1949)
      • ジョンソンのテレビ番組の中での発言→「森の中に住む良い機会です」、「壁とはあなたの心の中にある単なる理念です。もし、部屋のなかにいるあなたを取り囲むという意味で言っているのならば」。体を他人の眼に曝す水槽ような家であるという発言に対して→「人々はあなたが彼らを眺めているということに恐ている。」
      • ジョンソンはガラスを透明なものとしてではなく壁紙として経験していた。他のテレビ番組で→ガラスの家は「壁紙がとても素晴らしいという単純な理由でよく機能しています。それはたぶんとても高価な壁紙ですが、しかし、1日を通して5分毎に変化し、そして、ときどき──今年ではありませんが──コネティカットが与えてくれる美しい自然があなたを取り囲んでくれる、そのような壁紙をあなたは持てるのです。」
      • ガラスの家は開放性よりもむしろ、囲い込み、包み込みをもたらす。
      • ミースの『ファンズワース邸』との違いについて→「私は地面の上に住みたかったのです。私は包み込まれたかったのです。私は内外の建築を信じません。あなたが望むものとはあなたに寄り添い、抱きしめるための、暖炉の床のそばであなたを抱きしめるための包み込まれた家なのです。」、「この家は包み込まれています。この包み込みはかなり小さい姿(黒い帯が家の周りを回っている)であると認めなければなしません。しかし、それは景色を必要としません。景色を一種の壁紙に変えるのです。とても高価ですが、壁紙であり、太陽と月、星々がさまざまなパターンを作ります。」(P・ジョンソン)
        • ミニマリストの意見の建築→この完全な包囲という感覚
        • 「もし、あなたが良い建築の中にいるならば、あなたは取り囲まれているという感覚を持つでしょう。」(P・ジョンソン、インタビュー)
              ↓
        • ガラスが建築を非物質化するというより、伝統的役割を強化する。
              ↓
        • 「建築とは、空間をどのように取り囲むかということです。だからわたしは写真、TVそして映画が嫌いです。」(P・ジョンソン、インタビュー)
    • 『ガラスの家』はほとんどのアメリカ人がTVを所有したころに建てられたが、この家では全てのメディアテクノロジーが避けられている。→「テレビはないし、電話もない、蓄音機もない……どんな種類のノイズもありません。」(P・ジョンソン、TVインタビュー)
    • 戦後の郊外住宅→ピクチャーウィンドウを通して家族生活を放送するテレビ。
    • 『ガラスの家』→テレビスタジオになるために、石の住宅よりも外部に対して閉じられている。
    • ジョンソンのテレビスタジオとしての家というモデルはMartha Stewart(マーサ・スチュワート)(1941-)ようなアメリカ住宅の権威の人に採用されている。→マーサは自分の家をスタジオとして使っただけではなく、田舎の大きな屋敷を所有しおり、そこには、一連のモデル住宅がある。
    • ジョンソンも『ガラスの家』の敷地内に一連の建物があり、それぞれが放送の機会となった。『ガラスの家』が力を失うたびに、新しいパビリオンを建て、『ガラスの家』の議論を新しくした。
      • 「私はムズムズしているので、そこらじゅうに建てつづけているのです」、「だれも私におかしなものを建てるのを頼まない。それで私は一種のテストのようなことを自分でやっているのです。クライアントはいつも私にトイレや他の不必要な装置のある何か明確なものを要求します。しかし、私はいつでも自分のために好きなものを建てることができるのです。それで私はおよそ5、6年毎に新たなおかしなものを建てるのです。」(P・ジョンソン、インタビュー)
      • 『ガラスの家』はメディア(専門誌、大衆誌、TV)にのる(・・)ためのプラットファームだった。

    • 「天上のエレベータ。雪が降っているとき、その中であなたはたぶん、全てが降りてきているので昇っているような感じであろう。」とジョンソンは『ガラスの家』をたとえた。
          ↓
    • プラットフォームに止まっている列車内に座っているとき、反対側に列車が入ってきたときに、こちらが動いている感じがするのと同じ感覚。
    • この例やコルビュジェ、ミースの建物は水平方向だが、『ガラスの家』は垂直方向であり、この系統から離れる。→「ミースよりもミース主義である」マイケル・グレイヴス
    • ジョンソンはエレベータを建築の終わり、動きの中での空間経験の終わりだとして、嫌っていた。しかし、まるでこの閉所恐怖症的な箱が風景の中に置かれたときだけ、開放されたかのようであった。

    • 1947年のMoMAでのミースの展覧会のとき本で、ジョンソンは『ファンズワース邸』について→「浮いている自立した鳥かご」と述べた。
    • Henry-Russell (ヘンリー・ラッセル・ヒッチコック)(1903-1987)は『ファンズワース邸』→限定された空間を越えての外部生活の準備をしていない「浜に打ち上げられたヨット」と述べた。
    • 浮いているという意見はすでにあった。→「空気に浮いているガラスの棚」(雑誌『House & Garden』)
    • ジョンソンはエレベータとおなじように海が嫌いであった。
    • 『ファンズワース邸』が浜辺に打ち上げられたヨットであるならば、『ガラスの家』は海に浮かんでおり、そして、蓋を開けても開けても、つぎつぎと小さな箱が出てくるからくり箱のようなものである。
      • (P・ジョンソン、インタビュー)→からくり箱は一番大きな箱=部屋からはじめなければならない。この一番大きなものがランドスケープである。この一番大きい部屋=箱に空間の筏(緑の芝生)をつくる。この筏の上にまた別の筏(家)をつくり、次におなじようにレンガの床、次に白い絨毯……を作る。→ミクロコスモスとマクロコスモス
      • 『ガラスの家』→ガラスの箱ではなく、入れ子状になっている浮いている領域の移動という水平な表面である。
    • この水平運動は垂直のエレベータという考え、あるいはジョンソンが海辺にあるガラスの家を嫌っていることと矛盾するのではないか。
          ↓
    • そのようなことはなく、ジョンソンはメタファーを蓄積し、様々な組み合わせでそれらを繰り返した。
    • 筏は方向を欠いている。モダンの住宅がするように固定された位置からそれを眺めるのではない。
    • 筏の周辺のよって定められた垂直のヴォリューム
    • 「筏の親密さは閉じられた部屋の親密さと同じくらい素晴らしい。そこが、ガラスがなかった、昔の建築家、ガラスがなかった、が理解するのが難しいところです。海の上で、筏の上では、いやはや、あなたは囲まれているのです。あなたは外へ出ることは出来ません。そう、白い絨毯から出ることができないのです。そしてそれは情緒的にあなたをひとつにし、それであなたは対話が可能になります。」(P・ジョンソン、インタビュー)
  • この示唆に富む筏という考えは『ガラスの家』が完成して1ヵ月以内にarthur drexler(アーサー・ドレクスレル)によって指摘されていた。→アーサーがジョンソンから聞いたのか、ジョンソンがアーサーから聞いたのか。
        ↓
  • ジョンソンは、住宅のデザインを彼のすべての批評の中から拾い上げながら行ったように、彼の言葉にも同じことを行ったのではないだろうか?
  • ジョンソンは物事を吸収し、洗練させ、単純化するスポンジである。→彼自身の生活を簡単に理解できる言葉で報告するテレビ出演者、ジャーナリストのようである。ここにはレポーターとレポートされることの間に区別はない。
        ↓
  • ジョンソンは単に想像以上に長く続いたTV番組、リアリティ番組であった。

  • X線の家は内部にいる人と共にそれ自身を、その近くにいる人と共に外部世界を曝すだけではなく、外部世界にイメージを放送する。ガラスのパビリオンは同時的に外部からイメージを吸収しそして外部にイメージを投影する。
  • それは繊細であったが、トーチカ、ジョンソンの要塞化されたゲストハウス、郊外のどこにでもあるピクチャーウィンドーに埋め込まれた冷戦のパートナーという初期の警告のサインに付属された効率的なメディア機械であった。

Chapter8 The Underground House

  • p. 276.
    • キューバ危機から2年後の1964年にニューヨーク万国博覧会が始まった。そこでの建築は、商業的すぎる、通俗的すぎる、建築的なまとまりが欠けているとみなされた。そしてそこには有名建築家がいなかったのが徴候的であった。
    • 当時最良のモダン建築家たち、彼らの上品な動向は、アメリカ商業のランドスケープ、ポップの世界のジェネリックな形態に取って代わられた。これらは数年後にポストモダンの建築家にとっての重要なインスピレーションの源泉として見出されたものであった。ニューヨーク万国博覧会はそれ自体がポップ・アートの巨大な作品であった。
  • p. 277.
    • それは宇宙時代の幕開けだったのであり、万国博覧会は新しい世界の全体を導入していた。
      • 万博の公式のテーマ「拡大する世界の、縮小する地球における人類」
      • シンボルはユニスフィア()。「相互理解を通じた平和(Peace Through Understanding)」に捧げられた。
        • 大陸で覆われていて、首都がライトで光っている。最初期の宇宙船、人工衛星の軌道を表わしている。下のプールの端から見ると、地球に対して宇宙飛行士と同じ距離となる。
  • p. 278.
    • ユニスフィアは高速のコンピュータなしでは建てることができなっかったほどの複雑な計算の要し、かつて建てられた球形のもので最大のものであった。
    • 博覧会は、新しい驚くほど変化した世界とその変化に対して責任があるテクノロジーの両方を飼い馴らそうとした。
  • p. 279.
    • コンピュータはもっぱら家庭の問題にかかわっただけではなく、家庭の空間それ自体がひどくかき乱された。この博覧会でモダン・インテリアについての状況についての入念な提案がなされた。
          ↓
    • 『Underground Home』(地下住居)。平面図断面図
      • 死の灰という新たな恐怖からの防御として埋められた、伝統的な郊外のランチ・ハウス。
      • Jay Swayze(ジェイ・スウェイジ)の計画。彼は陸軍教官から高級住宅の建築請負業者になった。そしてキューバ危機の当時、核シェルターの実物を建てる仕事をしていた。
      • 1980年のスウェイジの『Underground Home』に関するする文章→「放射性の死の灰に対する防御として、大地を利用することのメリットを私は知っていた。(中略)核の時代が私たち圧し掛かっていて、そして、長期にわたるプランニングは、ありうる病的影響から人間を守ることを必要とした。」
  • p. 280.
    • スウェイジはすぐにシェルターのための陸軍のプロジェクトを住宅のための家庭的プロジェクトへと変えた。“一定の気温”と“自然あるいは人間が作り出した危険からの防護”。気温と湿度を調整することで、独自の気候を作り出せるコントロールされた環境を、住宅は提供した。さらにそれは、近所の騒音などを遮断することでもあり、そこで音楽を聴いたりできる。
      • 住宅はもはや物理的なシェルターではなかった。このシェルターは外部のいくつかは容認したが、他のものは排除した。それは独自の気候、独自の外部を作り出す機械であった。
    • 『Underground Home』は外を見ることができなかった。→1964/65年のニューヨーク万国博覧会での『Underground Home』では、その伝統的な窓に、ダイアル式で変えられる壁画がスーパーインポーズされた。それぞれの部屋はパノラマテックなランドスケープに面し、それを思いのままに、ムードや機会に合わせて変えることができた。それも部屋ごとに同時に。
  • p. 281.
    • この『Underground Home』では、内側と外側の間といったような伝統的な空間の区別が問題となるが、ここではこれらの区別が単純に放棄されてはいない。
      • “保護の殻(shell)”の内側では、“内部”と“外部”の間の明確な区分が維持されている。
      • 「屋外、裏庭、前庭、パティオ、中庭、庭、プール」は「すべて殻の内側の領域である」。「周辺/外側」は「殻に囲まれていないものではない」(スウェイジ)
      • 内側/外側の区別を内部化すること→「すばらしい安全──心の平和──真の究極のプライバシー」(ホリデー誌の記者)
    • 「数フィートの地下は人間に彼自身だけの島を与えることができる。そこでは、彼が自らの世界をコントロールする。その世界はくつろぎと快適さの合計であり、安全、安心であり、とりわけ私的(privacy)である。」(『Underground Home』のパンフレット)
    • “平穏”はこの戦争では、環境のコントロール、"外側”のコントロール(気候、騒音、空気、光、眺め)によってもたらされた。公共性は核の危険よりも、侵入者危険、通りの危険、虫、不純な空気を主張した。
  • p. 282.
    • 強調されるものは核から、1970年代はオイルショックのために省エネに、1980年代はエコロジカルな事柄へと変化した。"平穏と静寂"という伝統的家庭の考えは、核のような反家庭的なものとの戦いに従事することによってのみ、作り出すことができた。
    • 未来の住宅という考えは20世紀の初頭まで遡る。その進展は新しいメディアと新しいテクノロジーの出現に結び付けられている。電気、電話、ラジオ、車、飛行機、鉄骨フレーム、コンクリート、ガラス、プラスチック、エアコン、テレビ、ビデオ、監視システム、コンピュータ、インターネット、ブロードバンド、ワイアレスネットワーク……未来の夢はテクノロジカルであり、住宅はその実験場であった。
  • p. 283.
    • 未来の住宅は常に内側にとどまり、戸外を遠ざけ続けた。
    • 20世紀を通じて、念入りに作られたキッチンのイメージ、モデル、プロトタイプは、思いのままの世界という幻想を提示していた。しかしそれらは家で全ての食事をすることを前提としていた。
    • 内側は主婦自身のように、大変清潔なものとして組み立てられ、そして魅力的で、抵抗できないものであった。そこには称賛するためのものの形をした電化製品があり、オーブンや洗濯機には見るための窓さえあった。内部は全てを飲み込む、魅惑的なものとなった。なぜ出かけるのか。エアコンは埃、不純物、病原菌が浄化された外部の空気を保障した。鉄、アルミ、ガラス、プラスチックのような素材は衛生的なことを表わした。訪問者や配達人は注意深く選り分けられるか、完全に遠ざけられた。
    • 未来の家は超内部化空間(hyperinteriorized space)であった。住宅は20世紀が進行するにつれて、ますます外側の世界を排除した。
    • 『Underground Home』は結局は外側がない。→理想化された内側。外側のイメージは組み立てられ、そして住まわれた。理想化された種類の外部に住まうことによって恐怖を飼い馴らした。
    • もし住宅という考えが、外側から内側を分けることだとするならば、未来の家はハイテクのファンタジーという原始的な、アルカイックですらある質を生じさせながら、その分割を過激化した。
  • pp. 284-285.
    • このような内部/外部の過激な変質は、1964年のニューヨーク万国博覧会ではメインのテーマであった。
      • IBMパビリオン
        • エーロ・サーリネンとイームズ夫妻のコラボレーション。
        • 卵形のパビリオンの中でイームズ夫妻による映像が流されていた。
      • ベル電話会社・パビリオン
        • ピクチャーホンの展示
      • コカコーラ・パビリオン
        • 香港など、5つの地域の光景、音、匂い、気候のシミュレーション。
      • コダック・パヴィリオン
        • パビリオンそれ自体の写真、博覧会をバックにした家族写真を撮るためのステージセット。
        • 月のようなありえない場所が背景。

      • この博覧会のいたるところで、新しいメディアが新しい環境の経験を可能にするために眺められた。ただ単純に世界を表象しているのではなく、世界を再構築していた。メディアは環境になった。
      • コダックは1964年の博覧会に新しいインスタマチックカメラを導入していたが、カメラは1939年のニューヨーク万国博覧会のときにはまだ驚きとして見られていた。しかし1964年には大量消費の対象となっていた。
  • p. 286.
    • 光景の“私有化”、つまり“外部”の私有化はカメラの大量消費とともにやってきた。人々は写真、スナップショットの中に自分自身の歴史を組み立てた。それはちょうど、内側から見られた都市のイメージとしての、彼らの(地下)住宅の“外部”を、彼らが組み立てるようなものであった。
    • 1964年の博覧会の観客は“フレーム”を通してのみ“統一”を得ることができた。1939年の博覧会のときとは違って、コントロールの幻想を与えられた(会場の“内側”と“外側”の両方のイメージのコントロール)。この“フレーム”はテレビスクリーンのフレームになった。テレビはあらゆるところにあった。実質的には博覧会のあらゆる展示はテレビを盛り込んでいた。確かに博覧会自体はその当時、「世界で一番大きなテレビ」と解釈されていた。
  • p. 287.
    • 1964年の博覧会は「地球で最後の博覧会」と言われている1939年の博覧会ほどの面白さはなかった。1964年までに、テレビ自体はますます面白くなり、博覧会の時代は過ぎ去った。つまり、世界博覧会のメカニズム、あらゆるものをひとつの場所に捕まえることは、もはや外部、伝統的なパブリックスペース、博覧会会場では機能せず、家庭的な内部において機能した。パブリックな領域は室内に移された。
      • パトリシア・C・フィリップス→「市民のサイトとしてのパブリックスペースが解体されたちょうどそのとき、家庭が多くの意味で、よりパブリックに、開かれた公共広場になった。パブリックな世界はテレビ、ラジオ、パーソナルコンピュータを通して、それぞれの家庭に入っていった。その家庭とはパブリックがそれ以前には持っていなかったものであった。かつて集団においてはっきりと共有されていた儀式が、今でもまだ共有されている──しかし、孤立して。」
    • テレビのホームシアターは、月面着陸の集団的陶酔感からベトナムの集団的トラウマに及ぶ新しいドラマを確立した。それはきっぱりと、ローカルでプライベートな家庭生活と、国際的あるいは惑星間的なものの間の区別を取り除いていた。リビングルームにおける生と死。
  • p. 290.
    • Martha Rosler(マーサ・ロスラー)、『Bringing the War Home: House Beautiful』
      • 1967年から1972年にかけてのフォトモンタージュのシリーズ。建築誌とデザイン誌からとられたモダンな郊外インテリアの一般的イメージと、新聞やライフのような人気雑誌からとられたベトナムの戦場からのニュース広告のイメージを組み合わせている。(Cleaning the DrapesVacation Getaway)
      • テレビスクリーン上のイメージがピクチャーウィンドウのイメージになっている。住宅は戦場に置かれている。ロスラーはテレビが運んでくるものと、家庭それ自体との区別を取り払っている。アメリカの住宅は人が住んでいるテレビになった。
    • もし、戦後の郊外住宅のガラスの壁がメディアの形式として作動したならば、文字通りに世界を見る方法、その当時の典型的なメディア、テレビは新しい種類の空間を作り出した。テレビスクリーンの増大するイメージは、Paul virilio(ポール・ヴィリリオ)(1932-)が“視覚性の新しい形式”と呼んでいるものを作り出すことにおいて、建築の新しい形式を生み出した。
      • 「私たちは視覚性の新しい形式を目撃していると、私は思う。ある一定の方法で、電子的イメージが19世紀末期と20世紀の初頭の町と田舎の電化に取って代りつつある……自動式のカメラとモニターが町の街路灯とネオンライトに取って代わりつつある、と私は思う。あなたがモダンな町をあちこち移動するとき、すべてのものがヴィデオ・モニターに集中しているということにあなたは気づく。このヴィデオ・モニターは単に県警察のもの、あるいは交通循環のためのものだけではなく、スーパーマケットのもの、共同住宅の区画の間にある有線のものなどである。そしてここでは、その言葉の表象再現的、芸術的、説明的意味において、私たちはもはやイメージに全く関わりがない。つまり、それは他の光、電子的光の問題であり、私が思うに、この新しい照明なしでは、もはや空間を思い描くことができる人は居らず、それがリビング空間かどうか、町の空間かどうか、あるいはすべての領域の空間も思い描くことができない。」(ヴィリリオ)
  • p. 291.
    • 1964年のニューヨーク万国博覧会後、スウェイジによって建てられた地下住宅の写真では、テレビと暖炉が同じ壁を占めていた。互いにとても近く、家族はその周りに集まって、暖をとっていた。しかしその住宅は気温が常に一定に保てれおり、暖炉は純粋に視覚的なものであった。
    • テレビは根本的に外側の排除を可能にした。あるいはむしろ、内側に外側を供給したのはテレビであった。より広範囲の世界と接続する能力は、同時にすぐそばの世界から住宅を切断することを意味した。→トーチカとテレビの結合。
  • p. 292.
    • アメリカの住宅の2つの軌跡。
      • 住宅がどんどん軽くなっていき、まるで飛行するための準備をしているようであった。
      • 自らを要塞化し、地下へとより打ち込まれながら(bunkering)、強度のみを獲得している。
    • 新しい情報技術によって、かつて増大した住宅の非物質化とその伝統的機能の置き換えは互いにぴったりと合わせられた。このことは、その境界での再物質化の増大と、これまで以上に囲い込まれたセキュリティ・システムの出現によるものであった。
    • 未来の冷戦住宅は動かない逃走の乗物であった。未来の住人は離れることなく逃げることができた。住宅はついに世界全体になった。

Chapter7 Enclosed by Images

1

  • p. 240.
    • 私たちは今日、至るところで、いつもずらりと並んだ多重性に囲まれている──通りで、空港で、ショッピングセンターで、ジムで、そしてコンピュータとテレビ上でも。私たちの注意を巧みに操っている単一のイメージという考えは徐々に消えていっている。それはまるで私たちが集中するために散漫を必要としているようであり、私たちが──私たちは皆、新しい種類の空間、情報の空間に住んでいる──集団で注意欠陥障害と診断される恐れがあるかのようである。大都市において散漫の状態は、20世紀初期にヴァルター・ベンヤミンによってとても鮮やかに描かれているが、散漫の新しいかたち、つまり注意の新しいかたちに取って代わられているようだ。
    • 都市の中を映画的にさまようよりむしろ、いま私たちはある一方向を見、そして数多くの並置された動くイメージを見ている。それは私たちが単一の印象へと統合、あるいは還元したりできないほどである。私たちに向かってくるさまざまな種類の情報の流れがある数多くの同時的に“開く”窓を凝視しながら、私たちは人間工学的に完璧な椅子でコンピュータの前に座っている。私たちはほとんどそれに気づきさえしない。それは自然に見え、まるで情報を呼吸しているかのようである。
  • p. 252-257.
    • イームズ夫妻の『Glimpses of the USA』(1959)
      • イームズ夫妻は自覚的な新しい種類の空間の建築家であった。映画は世界の固定的なパースペクティブの眺めをやめている。実際、私たちは望遠鏡、ズームレンズ、飛行機、暗視カメラなどのハイテクノロジーでのみ把握可能な空間の中にいることに気がつく。そしてそこには特権的な視点はないのである。だからと言ってそれは単に、『Glimpses』をつくりあげている個々のイメージはこれらの装置で撮影されているからというわけではない。より重要なことは、イメージ間の関係がテクノロジーの作用を再現しているということである。
      • イームズ夫妻の画期的な技術は、単に観衆にものを見る新しい方法を提示したのではなかった。むしろそれは、すべてに人の意識の中に既にあった知覚の新しい様態を形づくった。
      • 『Glimpses』はテレビ、宇宙開発、軍事活動において示されていたいくつかの既存の様態を統合した。イームズ夫妻のすべての作品で典型的なように、即時に全体に対してアクセス可能にするのはこの総合の単純さと明快さであった。

2

  • p.259.
    • サーカス、観客が完全に把握することができない同時的経験の多様性(multiplicity)を提供する出来事としてのそれは、イームズ夫妻のマルチメディア展示のデザイン、そして彼らの映画とスライドショーのファスト・ カッティング(fast-cutting)の技術のモデルであった。そこでは、対象は、ある意味では楽しく効果的な最大量の情報を常に伝達するようになっていた。
  • p.260.
    • マルチスクリーン、マルチメディアのプレゼンテーションは戦争の状況分析室によってもたらされたかもしれない。
    • 「都市の管理において、線形の言説は明らかにうまく対処できない。私たちは、人工衛星による監視装置やその他のモニターされた情報源からのあらゆる情報の場である、(戦争の情報分析室よりもむしろ)都市の部屋あるいは世界の保健室を想像している(フラーのワールドゲームがひとつの例である)。……都市の問題は相反する利害と視点を伴っている。そのため、情報と関連つけられるの場はまた、それぞれのグループが自らの変化する要求のための計画を試せる場でなければならない。」(C・イームズ)
  • p.262.
    • 「現在、建築家にとって本当に最新の問題は──ブルネレスキが引き付けられていただろうと言われる問題──情報の組織化の問題であると私たちには見えた。都市計画、地域計画にとって、最初に必要なものは明瞭さ、最新の状態のモデルであり、それらはコンピュータだけがあなたのために取り扱うことができるデータベースから描かれたものである。」(イームズ夫妻)
  • p.263.
    • House: After Five Years of Living』(1955)→ファスト・ カッティング(fast-cutting)の技術。この技術は『Glimpses of the USA』の中でよりいっそう発展させられている。それは情報伝達の厳格な論理の周りに組織されている。デザイナーの役割は特定の情報の流れをデザインすることである。中心的な原則はひとつの圧縮である。……マルチスクリーン映画の空間は、コンピュータ空間のように、物理的空間を圧縮する。
  • p.264.
    • イームズ夫妻は多くの“散漫”の形式を提供しようとした。観客は彼らがそれを吸収する能力を超えたマルチメディアの空間を漂流する。
    • 『Glimpses of the USA』について、あるジャーナリストは「情報の積みすぎ──選び出したり拒否したりできないほど速く見る人に対してやってくる、関連のあるデータの雪崩……12分間の集中爆撃」と述べている。見る人は圧倒されている。何よりも、イームズ夫妻は感情的な反応を望み、それらの内容物によるのと同じぐらいのイメージの過剰さによって創作した。
  • p. 265.
    • IBMパヴィリオンマルチスクリーン
      • Herbert Bayer(ヘルベルト・バイヤー)(1900-1985)の『Diagram of the Field of Vision』(1930)を思い出させる。
      • 眼はスクリーンから逃げられず、それぞれのスクリーンは他のスクリーンによって縁取られている。……しかし、またもや眼はイメージからイメージへと跳び回らなければならなず、決してそれらのずべて、多様な内容を十分に捉えることができない。断片は瞬間的に結合されるために提示される。その映画は圧縮の論理と同じものによって組織化される。それぞれの瞬間的な結合は他のものに取って代わられる。フィルムの速度は思考の速度を目指している。
  • pp. 268-269.
    • イームズ夫妻のデザインのすべてはマルチスクリーンの遂行として理解できる。つまり彼らは、諸事物が置いたり、替えたりされ得るところでの枠組みを提供する。……空間はユーザーによって集められ、絶えず交換される情報の配列として定義される。これはメディアの空間である。新聞あるいは写真雑誌の空間は、情報が入ってくるままにそれが配列、再配列され得る場における格子である。……読者、閲覧者、消費者は、デザインに自発的に参加しつつ、空間を組み立てる。それは、カッテイングを通じて継続性が形成される空間である。ニュース映画とテレビの空間についても同様である。イームズ夫妻のマルチスクリーンの論理は、簡単に言えばマスメディアの論理である。
  • p. 269.
    • 全てのイームズの建築はセット・デザインとして理解できる。……建築はあるイメージを作り上げるために再組織化された。1950年にC・イームズはすでに、コミュニケーション時代としての私たちの状況について述べていた。彼は、新しいメディアは建築の古い役割に取って代わるということを敏感に感じていた。
  • p. 270.
    • あらゆる意味において、イームズの建築は情報の空間がずべてである。たぶん私たちは、もはや“空間”については語れず、むしろ“構造”について、あるいはより正確には時間について語ることができる。イームズ夫妻にとって構造は時間における組織化である。ミース・ファン・デル・ローエの建築で中心をなす細部はイームズ夫妻が“結合(connections)”と呼ぶものに置き換えられる。
  • p. 272.
    • 戦争の思考から現れたが、イームズ夫妻のコミュニケーションの世界での刷新、彼らの展示、映画、そしてマルチスクリーンのパフォーマンスは建築の状態を変えた。彼らの高度にコントロールされた同時のイメージは空間、囲うもの──いま私たちが考えることなく、絶えず占有しているある種の空間──を提供した。

      GG Lab. by GGAO

*1 スーザン・ソンタグ『隠喩としての病・エイズとその隠喩』みすず書房
*2 ル・コルビュジェ『今日の装飾芸術』SD選書 鹿島出版会
*3 ジャック・ラカン 『フロイトの技法論 下』岩波書店
*4 videoはラテン語で「I see」の意味

添付ファイル: fileBefreites_Wohnen.jpg 136件 [詳細] fileSchindler_Lovell_beach_house.jpg 83件 [詳細] fileunderground_house02.jpg 66件 [詳細] fileunderground_house01.jpg 85件 [詳細] filesuburban_house.jpg 88件 [詳細] filemccallsbookofmodernhouses.jpg 62件 [詳細] filemartharosler_Vacation-Getaway (1967-72).jpg 88件 [詳細] filecrystal_house.jpg 96件 [詳細] fileWerkbund_Exhibition.jpg 75件 [詳細] fileVideo_Projection_Outside_Home.jpg 70件 [詳細] fileTwo-way_Mirror_Cylinder.jpg 71件 [詳細] fileSkyscraper1922.jpg 85件 [詳細] fileSkyscraper1921.jpg 84件 [詳細] fileSchindler-Chase house.jpg 74件 [詳細] fileglass_room.jpg 71件 [詳細] filePublic_Space_Two_Audiences.jpg 87件 [詳細] fileNew_York_World_Fair.jpg 103件 [詳細] fileNeutra_Scioberetti_House.jpg 81件 [詳細] fileNeutra_Lovell beach_house.jpg 77件 [詳細] filemartharosler_cleaning-the-drapes(1969-72).jpg 98件 [詳細] fileHerbert Bayer_Diagram of the Field of Vision(1930).jpg 71件 [詳細] fileGlass_house_2.jpg 90件 [詳細] fileGlass_Pavilion.jpg 88件 [詳細] fileCartesian_Skyscraper.jpg 76件 [詳細] fileDomesticity at War.jpg 63件 [詳細] fileGlass_house.jpg 84件 [詳細] fileunisphere.jpg 81件 [詳細]

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Last-modified: 2017-04-07 (金) 23:00:21