Frederick Law Olmsted and the Dialectical Landscapeのメモ †
ロバート・スミッソン(Robert Smithson) 著、Jack D. Flam 著, 編集
(Robert Smithson: The Collected Writings,
University of California Press(1996),
ISBN13:978-0520203853
pp. 157-171. 所収)
- p. 157.
- 百万年前のセントラルパークの巨大な氷河に今では誰も気が付かないだろう。
- p. 158.
- 1850年代、Frederick Law Olmsted(フレデリック・ロー・オルムステッド)(1822-1903)とCalvert Vaux(カルバート・ボークス)(1824-1895)は『(Greensward)』と呼ばれるセントラルパークの案を提案した。
- 敷地の"以前"の写真を目撃する。それは私に、オハイオ州の南東部で昨年見た帯状の採石地帯を思い出させる。この色あせた写真は、マンハッタン島の上にはかつて不毛の地、人間が作った荒地があったことを明らかにする。→F. Scott Fitzgerald(F・スコット・フィッツジェラルド)(1886-1940)の"灰の谷"の観察を想起させる。「灰が小麦のように生長して、山や丘や奇怪な菜園(gardens)になる……」*1。
- オルムステッドは"自然の普遍的ローブ"*2としての緑色に憧れ、またイングランドのシャラワジの公園に憧れた。また、都市の絶え間ない変化の中で、ウヴェデール・プライスの非対称的なランドスケープを必要なものとした。
- p. 159.
- Thoreau(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)(1817-1862)の心的対比→"ウォールデン池(Walden Pond)が小さな大洋になる"*3。オルムステッドの物理的対比→メトロポリスの中にジェファーソン主義の農村の現実。
- オルムステッドのランドスケープついての見方の起源は18世紀の英国、特にプライスとWilliam Gilpin(ウイリアム・ギルピン)(1724-1804)の理論に見いだせる。
- プライス→たとえば雷に打たれた木は、たんなる美あるいは崇高以外の何かである。それは"ピクチャレスク"である。プライスは彼の時代の"フォーマリスト"が排除していた自然の一面を認めていたようであった。
- 「なだらかな丘の斜面が洪水で崩された場合に、それははじめのうちは奇怪な変形をこうむったといえるであろう。そして人に与える印象は別でも、生きた動物に加えられた傷跡についても同じことである。また大地にそうした傷跡が与えられた場合にも、その生々しさがいえて、時のもたらす作用でそれが部分的に隠され、飾られると、同様な経過を辿って、生長する植物や当初の奇怪さはピクチュアレスクに変わってゆく、そして石切り場や砂利を掘った後の溝などの、はじめのうちは奇怪な変形物であったものが、非常にピクチュアレスクなものに変わっているのが、測量中の造園家にしばしば認められるのである。」*4
- プライスとギルピン→弁証法的ランドスケープの始まり。
- バークの"美"と"崇高"の考えは滑らかさ、穏やかな曲線の理論、自然の繊細さいうテーゼ、また、恐怖、孤独、自然の巨大さというアンチテーゼとして機能する。双方はヘーゲル主義者の理念ではなく、むしろ現実の世界に根ざしている。プライスとギルピンは"ピクチャレスク"の形成というジンテーゼをもたらした。
- それは自然の物質的序列における偶然と変化に関係している。"ピクチャレスク"の矛盾は静的なフォーマリズム的な自然の見方からは離れている。
- p. 160.
- ピクチャレスクは思考の内的運動では決してなく、現実の土地に基づいている。このタイプの弁証法は孤立したオブジェクトとしてではなく、関係の多様性のなかでのオブジェクトとしての見方である。弁証法家にとっての自然は形式の理念には無関心である。
- このことは自然を前にして無力であるということを意味するのではなく、むしろそれはプライスのいった洪水によって丘が裂かれた例のように予期できない自然の条件なのである。人間活動のあらゆる水準における予期不可能性と矛盾を、それが社会、政治あるいは自然だったとしても、保持し続けている。
- ホイットニー美術館での展覧会における地図、写真、文書は、オルムステッドの作品自体と同じだけの量の作品の断片であった。
- その写真は公園の継続的な成長と建造における一瞬という生のままのものを持っており、そして、孤立化された形式よりもむしろ変化の感覚を補強することに役立つ継続の中断を示している。この写真の中に自然の展開は形而上学ではなく弁証法に基づいているということに気が付く。
- p. 161.
- John Martin(ジョン・マーティン)(1789-1854)によるMilton(ジョン・ミルトン)(1608-1674)の『失楽園』ための挿絵→マーティンはイングランドの産業革命中に生まれたため、エンジニアリングの成果を宇宙の最期へと翻訳した。彼は『失楽園』における橋の変わりにトンネルを使い、そしてそうしたことによって形而上学へと後退した。この例においては、ピクチャレスクのより弁証法的な外観は、ピューリタンの信仰にその起源がある感傷的な憂鬱で覆い隠されている。
- 今日の形而上学的な性質のエコロジストたちは、まだ工業という事業をサタンの働きだと考えている。楽園喪失のイメージは中身のある弁証法もないまま放っておき、生態学的絶望を経験させる。自然は人間のように一方的ではない。
- "反民主主義的知識人"の登場を伴う今世紀(20世紀)序盤あたりにおいて、オルムステッドのランドスケープの考え方は見失われていた。
- T.S.Eliot(T・S・エリオット)(1888-1965)、詩の中ではピクチャレスクの形跡を維持したが、理論的にはそれを軽蔑していた。エリオットは『荒地』の中で「礼拝堂をめぐる墓場はくづれ」、「あれはからっぽの礼拝堂、風の家にすぎない。」*5と書いている。
- p. 162.
- しかしエリオットのピクチャレスクは教会の権威に対してのノスタルジーであって、それはプライスとオルムステッドが目指していた森の住人と工業の住人との民主的な弁証法をやめていた。
- フランスに転じてみると、ピクチャレスクの感覚はポール・セザンヌの『Bibémus Quarry(ビベミュスの石切場)』(1895)をもたらしたが、彼のランドスケープへの直接的出会いは、まもなく、"平面性"や"情緒的な抽象"という今日の私たちのつまらない考えへと導いた、スタジオを拠点としたフォーマリズムやキュビズムの還元主義に取って代わられた。
- ヴィルヘルム・ヴォリンガーの『抽象と感情移入』(1908)
- 抽象の"概念"を感覚的であるルネサンス人文主義の擬人化された汎神論の外に位置づけた。「根源的芸術衝動は自然の再現とは何らの関係もない」*6と言った。
- 幾何学は死んだ事物の再現として印象を与える。抽象は心的あるいは概念的還元に基づく"現実主義"が欠けている自然の表現である。そこには抽象的表現を通しての自然からの逃避はない。すなわち、抽象は自然自体の中にある物質的構造に人を近づける。しかし、このことは自然に対する確信を新しくすることを意味するのではなく、ただ単に抽象は信頼の原因ではないことを意味する。もし自然の弁証法を受け入れるならば、抽象は唯一有効であることができる。
- p. 163.
- ニューヨークタイムズ(1972年5月12日、日曜日)おいてのGrace Glueck(グレース・グリュック)のコラムの見出しは『Artist-in-Residence for Mother Earth(母なる大地のための住居の中にいる芸術家)』であり、そこには" 一種の精神の管理人(A sort of spiritual caretaker)"というキャプションのAlan Gussow(アラン・ガッソウ)(1931-1997)の写真があった。この記事を読むとエコロジカル・エディプスコンプレックスと呼ぶことができるような何かを発見することができるかもしれない。
- Simone de Beauvoir(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)(1908-1986)は『第二の性』に書いている。「アイスキュロスはオイディプスについて「自分を作り出した聖なる畝に大胆にも種子をまいた」と言う」。*7
- アラン・ガッソウ→「工兵のように土地を切ったり掘ったりしているアースワークの芸術家たちとは異なり、これらの芸術家たちが行うことはこれらの場所を可視化すること、その精神とコミュニケートすることである。必要とされていることとは場所を祝うための抒情詩である。」
- ガッソウが"アースワークの芸術家たち"であるとイメージしている何かに対して、"工兵"という彼の投影は彼自身の性的不安に結びついているようだ。
- ガッソウのような審美的表現の芸術家(彼はありふれた印象主義的絵画を描いている)は暴力、"マッチョ"な攻撃性のない土地の直接的な有機的操作の可能性を認識するのに失敗している。スピリチャリズムは人間と自然の間の分裂を広げるのである。農民、鉱山作業員、芸術家の土地の取り扱いは、自然としての彼自身をどのようにして気付くかということに依存している。
- p. 164.
- もし、ガッソウが19世紀半ばに生きていたら、セントラルパークを作るために馬車1000万台分の土を動かす代わりに、オルムステッドに"叙情詩"を書くことを提案していたであろう。ガッソウのような芸術家は自然と人との間の具体的な弁証法を作ろうと試みるよりもむしろ、景色の良い美しいスポットへと後退するタイプである。このような芸術家は独善で自身を取り囲み、ランドスケープを守っている振りをする。
- このようなスピリチュアルさ→偽似イノセンス*8
- p. 165.
- セントラルパークの弁証法→ごみが散らかり、泥につかり、近頃の無断定住者の空き家でいっぱいで、そして、無断定住者が残していったヤギたちに占領されている公園自体の外見。結局、それらが収容されるまでは、少ししかない公園の木の葉を食べる狂暴なヤギたちは大変な邪魔者であった。
- p. 166.
- セントラルパークの敷地は"都市障害"の結果であった。木は初期の定住者に未来に対する考えなしに切り落とされた。このような敷地はエコロジストを逆撫ですることを恐れずに、文字通り土木によって開墾された。私自身の経験では"アース・アート"ための最高の敷地は工業、無謀な都市化、自然自身の荒廃によって混乱させられている敷地である。
- p. 168.
- ヨセミテ国立公園→公園開発でのアメリカの新しい発見。ヨーロッパの"廃墟中毒"と"自然廃墟"との結合。John Ruskin(ジョン・ラスキン)(1819-1900)はアメリカには城がないので、決してアメリカを訪れなかった。それにもかかわらず、CASTLE ROCK(キャッスルロック)は西部の至るとことで、多くの自然の姿のための名前となった。