John Hejduk:Oslo Fall Nightのメモ †
ジョン・ヘイダック(John Hejduk)著
(Columbia Documents of Architecture and Theory VOLUME2
Columbia University Graduate School (1993)
ISBN-13:978-0962382994
P7-33所収)
ジョン・ヘイダックによるレクチャー(1990年10月3日 Wood Auditorium Columbia University) †
| サンピエトロのピエタ (1498-1500) 25歳 | | フィレンツェのピエタ(未完) (1547-1553) 75歳 | | ロンダニーニのピエタ(未完) (1559-1964) 89歳 |
- p. 10.
- Henry Purcell(ヘンリー・パーセル)(1659-1695)の歌曲より数行の引用
- “When the clothes removed then by all approved comes the full great cup Queen honors good success”
- “Sweeter than roses a cool evening breez” バラのはなより、また夕べの涼風よりかぐわしく*1
- “Where o where shall my soul repose?”
- pp. 10-11.
- Igor Stravinsky(イーゴリ・ストラヴィンスキー)(1882-1971)『音楽とは何か』より数行の引用
- (さきほど私は <説明> という言葉を用いましたが、この) <説明する> (エクスプリケ)という言葉はラテン語のエクスプリカーレ、すなわち <巻いたものを解く> とか <畳んだものを開く> とかという意味の言葉からでております。そしてエクスプリケとは、ある事柄を述べ、その所以をたずね、物と物のあいだの関係を確かめること──要するに、一つの事柄を明かそうとすることを指します。しかも私がこれを諸君にたいして説明するといいますのは、同時に私自身にたいして説明することであります。そもそも世間には無知と悪意という二つのものがありまして、これらのものが物事の真の姿を歪めております。ですから私は <説明> によって、このような歪められたものの真の姿を明らかにせねばなりません。*2
- いったい芸術とは、その本来の意味にしたがえば、物をある一定の方法で作りだすことであります。そしてその方法は、他から習い覚えたものである場合もありますし、また自分で考えだしたものである場合もありますが、とにかくそれははっきりきまった筋道でありまして、私たちがこれにしたがいさえすれば、必ず正しく仕事ができるものであります。*3
- (私はただ今 <食欲> と申しましたけれども)創作活動の根源にはいつも一種の食欲のような欲望があります。そして私たちがこれから発見するべきものを予感します時に、この欲望が起こるのであります。そしてこのように、これからなすべき創作活動を予感することはいつ起こるかと申しますと、それはさっき述べましたような未知のものが心にはいりこみます時に、それにともなって起こるのであります。(そのようにして、その未知のものがいったん私たちの心にはいりこめば、)それでもう私たちはその未知のものを自分の中に持っているわけではありますけれども、なおかつ依然として、そのものは未知のままになっております。ですから、それがはっきりとした形をとるためには、私たちは一つの技術をたえず抜かりなく働かせねばなりません。*4
- p. 12.
- スライドの紹介
Édouard Manet(エドゥアール・マネ)(1832-1883) Le Déjeuner sur l'herbe(草上の昼食)1963 | | モデルとピクニックの関係、そして周囲の自然な様子のすべて、それでもなお、彼女はそこで裸であるということ。 |
René Magritte(ルネ・マグリット)(1898-1967) La Presence D'esprit (精神の現在)1960 | | そのイメージを逆さまに回転させ、二つ一緒に置いてみた。すると、それらは驚くべき事実があった。 不透明な状態での反射。一つのものが動くちょうどその時、それは流動的になる。 不透明なものの、すべての流動性、不透明の流動性、不透明の反射性。 |
Jean Auguste Dominique Ingres(ドミニク・アングル)(1780-1867) Countesse d'Haussonville(ドーソンヴィル伯爵夫人)1845 | | 不透明な流動性をもった、あのマグリットの絵ように、鏡と共にあるドーソンヴィル伯爵夫人においては、それは反射の不透明性、あるいは思考の厚みである。とはいえ、思考というのは物質でないものの厚さなのです。 |
- p. 13.
- 建築家は彼の精神の眼の内側に建築的イメージを持っています。この最初のイメージはたった一枚の静止画像のようなものです。なぜなら、いなかる建築家も最初に完全な建築の全体的イメージを一挙に持つとは、私は信じないからです。私の経験あるいは知識では、そのようにはなりません。そこには、ある期間にわたって相次ぐ連続的イメージがあるかもしれません。しかし、期間が、どんなに短くても、それは全体へと向かうの展開にとって必要な要因です。“全体的建築”は最終的には諸部分、諸断片、組立てからなるということが理解されるべきです。
- p. 14.
- 建築は遠くから、内部(接近して)から観察することができます。私たちはそれによって取り込まれたもの、内部の一部になります。まさに外側の観察者、または外側の見物人になる代わりに、私たちはその内部の有機体の一部になります。私たちは物理的で有機的な参加者となります。つまり私たちは取り囲まれます。建築は私たちに、外側から外側をじっと見、そして内部を見る人でもある窃視者になる機会を提供してくれる、唯一の芸術形式です。私たちはまた、外側から内側を、内側から外側を、そして内側から内側を観察することもできます。それはすべて一連の外側の諸断片と内側の諸断片で構成されています。
- p. 16.
- 建築家は空白の上に、2次元の紙切れにたくさんの表現をします。彼はその表面にアイデアのイメージを描くことができます。平面図、立面図、断面図を描くとき、彼は基本的に紙の表面と平行なノーテーションを構成しています。彼はまた、アイソメ、アクソメ、パースを紙の上に空間化できます。……とにかく一枚の紙切れに描くことは建築的なリアリティなのです。
- pp. 16-17.
- 縮尺模型は通常、3次元における縮小されたものです。つまり、私たちはそれより大きく、それの周りを漂い、それの周りを歩き、手でそれをつかんだりします……。模型は一連の2次元的調整を寄せ集めて作られています。そのためそれはまた、錯覚的です──模造。それはまた、紙の上の透視図よりもアイソメやアクソメにいくぶん近い建築的な現実です。
- p. 17.
- その後、建物は建てられます。それはまた他の現実に基づく現実でもあります。そこにはたくさんの興味深い状態があり、その状態とは仮定の観察者が現れるということに関してです。離れたところから、観察者は模型に近い物として建てられた建築を見ることができますが、しかし、彼は動きに中に身おおかなければ、“全体”を見ることはできず、3次元の現実においていろいろな点の眺めからそれを吟味することができないのです。
- 建築作品が現実世界に建てられ後では、より一層の表象=(再)現前化(re-presetation)が可能になります。私たちは既にある構造をスケッチできます。構造の映画を作れます。構造の写真を取れます。私にとっては、描かれた情報を通して建築を見ることが適切であるように思われます。しかしながら、最初のドローイングが新鮮であるのに、建造の後にそれを再び描くことは、いくぶん魅力ないように思われます。建てられたものの模型を作ることは、より重要であり、奇妙なことに、建てられる前の建築模型に非常に良く似ています。
- このことは私たちを2つの異なる様態にします。映画とスチール写真です。これらの2つの状態を検討する前に、仮定の観察者に戻ってみましょう。その観察者が建築に接近するとき、建物は単純に大きくなります。そして観察者はさらに細部が見えます。彼の位置はオブジェクトの周りを漂っている位置から観察者の周りを漂っているオブジェクトの一部へと変化します。それはまるで、建築の断片が仮定の観察者を飲み込むようであり、彼がその内的な展開プロセスのシステムの部分になったかのようです。もちろん彼の前の長旅を反転させるための外皮膜を通過して、いつでも彼は追放さうるのです。この環境は建築特有のものです。
- p. 18.
- 今、私たちの仮定の観察者は同じ旅を2回以上繰り返すことができます──動画を携えた手に映画のカメラを持って、そして静止画を携えた手にカメラをもって。両方のケースにおいて、観察されたイメージはフレーム化されています。……動画は、以前私が言ったように、けっして完全な深さの外観を持たず、およそ4分の3の深さの外観を持っています。このために、最も意味深い対立が起こります。
- テオ・ファン・ドースブルフは絵画を制作し、絵の中で対角線を傾けましたが、四角形はそのままにしていました。……モンドリアンがおこなったことは、キャンバスを傾けましたが、直角の関係をそのままにしました。私はそのことについて長い間、考えていました。そして私は深さの“平面性”に興味があったので、一連の分析的なスタディーを続けました。
- p. 19.
- ダイアモンド・シリーズ
- あなたはスクエア(四角形)を使ってアイソメを作ることができます。そうするとスクエアはダイアモンド(菱形)になります。もしあなたがプランにダイアモンドを使い、そしてそれを3階建てにしたならば、特定の配置を得るでしょう。スクエアは2次元です。しかし、アイソメは3次元です。これはあなたがその投影システムを使い、床の上に床を組み建てている時に起こっていることなのです。あなたは投影されたオブジェクトから、全体的平面化を獲得しています。……非常に分析的で現象的なドローイングは、絶対的な空間の崩壊、時間の崩壊を建築的に示しており、それはまた、ブラック・ホールの説明へと導きました。……そこには次元の2重化があり、その穴/全体(hole/whole)の中への消失があるのです。
- ウォール・ハウス
- ウォール・ハウスの空間は壁の中へと圧縮されて、あるいは壁の中へと崩壊しています。ウォール・ハウスの現実の空間とは壁の一方から他方への間のことではなく、現実の閾、その8インチの壁の空間を通過する運動なのです。……私はX軸、Y軸の両方に沿っている建築とカルテジアン空間の3次元を崩壊させたかったのです。
- p. 20.
- Thirteen Watch towers of Cannaregio
- イタリア、ヴェニスのプロジェクト。
- その小さい家【ウォール・ハウスのひとつ】は広場に置かれました。言い換えるとそれは孤立を避け、都市空間の中へと入っていきました。そこで起こっていたことは興味深いものでした。極めて小さいウォール・ハウスの純粋な抽象性が、13本の塔に対峙していました。つまり、抽象性が歴史性に対峙しており、それがプロジェクトの主張でした。最終的な動きとは、ウォール・ハウスが街(la città)の織物の中へと入っていくことでした。この織物は全面的に都市の文脈の内で維持されています。
- pp.20-22
- 「いくつかの覚書:静止画像のイメージについての現実」、「1.事物はイメージ-思考の移動と伝達のために、平らにされている。2.三次元の世界は、二次元的にイメージの中へと移される。そこではイメージの最大限の潜在性が止められ、またイメージの最も強いエネルギーが静物画に反映されている、いわば死んだ物である。例えば、十字架の上でのキリストの死の瞬間などである。」
- p. 29.
- 芸術は、絵画であろうと、文学あるいは建築であろうと、思考の残殻です。実際の思考は実体がありません。私たちは実際に思考を見ることはできず、ただその残り物を見ることができるだけです。思考は己自身を、自らの殻を取ること、あるいは抜け殻によって明らかにします。それは限定を越えることです。