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The Mutant Body of Architectureのメモ

Flesh.jpg

ジョルジュ・ティソー(Georges teyssot)著
(Flesh: Architectural Probes,
Elizabeth Diller, Ricardo Scofidio (著),
Princeton Architectural Press(1996)
ISBN-13:978-1878271372
pp. 8-35.所収)

  • p. 9.
    • ディラー+スコッフィディオの作品は、社会における私たちの“身体”の状態をしばしば取り扱っている。彼らのプロジェクトは、世界と混じり合っている私たちの身体のさまざまな“襞”を辿っている(身体[body]、ギリシャの思想。肉[flesh]、キリスト教の伝統)。これらの皺これらの溝は、物理的な、感覚的な、生命の、感情の、心理的な、そして社会的なさまざまな経験を通過した人間の身体によって獲得される。
    • ディラー+スコフィディオによって理論化される作業は、言説や論理に適用されるのではなく、言説が残っていない領域に適用される。→「こうしたディスクールなき活動、人間活動のうちで、何らかの言語で飼いなさされ象徴化されたことのないものからできあがっているこの広大な「残り」」(ミシェル・ド・セルトー)*1
    • ディラー+スコフィディオ→「建築は典型的に文化的慣習を維持するという、共犯の役割の一部になっている。しかしながら、建築は尋問者の役割の状況に置かれ得る。現代の身体の技術的、政治的な再-配置が付与されると、空間的な慣習は建築によって疑問に付されるかもしれない。建築は少しずつ増加する効果のある、一種の手術器具のように利用され得る。」
  • p. 10.
    • 機械と輸送技術、コミュニケーション技術の使用、かつてなく結合された影響の広がりが増加するにつれて、私たちは物理的な形状がない生活スタイルへと到達している。
    • 有機的で機械的な状態の合流点で、身体は生きた(またはそれ故死んだ)機械になるという突然変異を経験する能力がある。→映画『鉄男』(1989)
    • Gary Hill(ゲイリー・ヒル)(1951-)のひとつの身体の断片的イメージが16個のモニタにあらわにされている、ヴィデオインスタレーション『Inasmuch As It Is Always Already Taking Place』(1990)→“鏡像段階”の奇妙な反転として考えられることが可能なものにおいて、身体は技術的にまず分解され、そして組み立てなおされる。
    • これらのアーティストは、主体と客体の間で起こっている驚くべき交渉を明らかにする必要性に動かされているため、身体(実際は肉体それ自体)が、主観性の状態に対する尋問のための最良の手段になる。
    • Rebecca Horn(レベッカ・ホルン)(1944-)の初期の作品では、人間の身体の主観的で生理学的な機能の地図作成が試みられている。→『Overflowing-blood-machine』(1970)、『Comucopia』(1970)。
  • p. 11.
    • レベッカ・ホルンの“反転した身体”の視覚的分析は、眼や手のような知覚、感覚運動を拡張した装置を通じて追求されている。→『Finger-Gloves』(1971)、『Pencil Mask』(1972)。
    • ディラー+スコフィディオの一連のイメージは、身体の表面とその表面化のテーマに注目させる。
      • Cristóbal Balenciaga(クリストバル・バレンシアガ)(1895-1972)『Bride in White Gazar』(1967)→ファッションだけではなく、同時に覆うことの最も重要で表面的な“性質”であり、被服の潜在的エロチシズムであり、仮面と皮膚の隠された言語である。自然あるいは人工。
  • p. 12
    • 物理的な外観──美的な外観のコントロールあるいは再現──に備わっている重要なことは、この行動のための数々の道具の出現によって確認できる。それは過剰を修正するか、欠点を補うのが常である。いくつかの道具は摘出すること(たとえば、毛を引き抜く、あるいはワックスで脚のむだ毛の始末)に利用され、その他は補うこと(たとえば、まつげにマスカラを塗ること)に利用される。この行動のすべてはコードに言及し、そして規範にしたがっている。→「身体にコードを語らせる(、、、、、、、、、、、)」(セルトー)*2
    • 身体を“加工する”こと、身体に秩序を書き込むことは避けられないことのように思われる。同じことが皮膚に対しての衣服にも言えるようだ。→衣服は道具であり、身体であるという2重のカテゴリー。
    • 衣服と皮膚は共に、ファッションと社会的地位のような社会的階級のコード化に言及する。衣服と皮膚は身体の上に周知の意味を与えるために、操作され得る。純粋なサインとなることで、“社会的”水準においてはっきりと、身体は指定された言説、適切な名称、アイデンティティーを受け取る。
  • p. 13.
    • 世紀の変わり目に(19世紀から20世紀)、機械はメデイア転送を通じて、やっと視覚化した。女性を間に入れること無しには、自動車は描写されない。この女性は一つのタイプ、“エロス・モダン・スタイル”の基準に一致する。Alice Jardine(アリス・ジャーディン)→「テクノロジーは常に母親の身体に関することであり続けている……そして、ある種の男性の幻影に関してのことのようである。」、「機械はその幻想における女性である。」
    • 女性、男性と機械との3者間の未完成婚についての作品→Auguste Villiers de l'Isle-Adam(オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン)(1839-1889)『未来のイヴ』、Alfred Jarry(アルフレッド・ジャリ)(1873-1904)『超男性』、そしてRaymond Roussel(レーモン・ルーセル)(1877-1933)、デュシャン、カフカの機械にもとづく作品。*3
    • 『独身機械』について→「エクリチュールという操作のなかに閉じこめられてしまった監禁の神話である。そのエクリチュールは、際限なく書きつづけてゆき、どこまでいっても自分以外のものに出会うことがない。」(セルトー)*4
  • p. 14.
    • これらのものは、社会的な機械装置、規律上の器具、そして整形外科と奇形矯正が提供する装置によって、どのように規則が身体に書き込まれるかを描いている。
    • 「こうした身体のテクスト化が法の受肉化に応えるのだ。」(セルトー)*5
    • 「言語の生産機械はストーリーをきれいに拭いとられ、現実の猥雑さを奪いとられ、絶-対的で、自分以外の「独身者」とかかわりをもたない。」(セルトー)*6
  • p. 15.
    • 道具や器具の使い方を学ぶことが成し遂げられるのは、結合(incorporation)のプロセスを通じてである。結合(incorporation)はラテン語のcorpusの語源をもち、“身体の中に収めること”を意味する。結合は私たちに新しい能力を獲得させるものである。これらの能力は、固定した習慣へと落ち着く。時間がたつにつれて、これらの繰り返される習慣は決定的に結合され、私たちの視界から消え、身体構造の内部に包み込まれるようなる。
    • この時間的なプロセスに沿って、結合の空間的なプロセスが現れる。それは道具、器具、そして装置の使用から生まれる。→ハイデガーの用在的(zuhanden)*7
    • 道具と器具は私たちの環境をかたちづくる装置-構造という部品を構成している。そしてそれらは不適切に機能しない限り、日常で使用されるとき私たちは配慮しなに消える傾向がある。同じように、私たちの身体の器官と付属物は、正確な働きが想定され、行われているとき、私たちの明確な注意から逃れている。このようにそこには直接のつながり、感覚運動器官の消失と私たちが握っている道具の消失との類似がある。→不在の2つの形式
    • 「盲人の杖も、彼にとって一対象であることをやめ、もはやそれ自体としては知覚されず、杖の尖きは感性帯へと変貌した。杖は〔盲人の〕触覚の広さと行動半径を増したのであり、視覚の類同物となったのである。」(メルロー・ポンティ)*8
  • p. 16.
    • ギリシャ語は肉体の器官と道具の両方を意味するのに、organonというひとつの語しかもたなかった。さらに、その言葉は“労働”を意味するergonという語と非常に密接に関係していた。この器官と道具との関係は、私たちが住む空間、環境、世界において私たちの行動を定義する。このような関係は「私たちの、単に自然な肉の身体ではない、技術的に補われた身体によって作り出された空間において姿を現す」(ドゥルー・レダー)*9ことができる。
    • 私たちは「肉体的な力へと組み込まれ、そしてそれを拡張する第二の身体のように」(ドゥルー・レダー)*10道具と器具を考えなければならない。その結果、建築の役割論理的における命題を、論理的にひっくり返すことが可能になり、そしてそれは必須にさえなる。テクノロジーの結合は、新しい環境を“イメージする”ことによってもたらされるのではなく、身体それ自体を再形成すること、人工の四肢が世界と出会うところへと後押しすることによってもたらされる。
  • p. 17.
    • 今日、テクノロジーは自らの行動の範囲を拡張している。この文章では、“自然”対する“生物学”の勝利を証明しようとしている。既に19世紀に、軍隊によって発展させられた形成外科と再建外科は、顔立ちの正しさのための道を開いていた。自己移植の外手術(同じ身体の皮膚の使用)は移植技術を完璧にした。ヨーロッパと南北戦争後のアメリカで、補綴の使用が増加していたとき、ワセリンとパラフィンの局部注入もまた患者に施された。それは例えば、乳房の不恰好を補うためであった。
    • ミニマリズム以後、人間の身体はパフォーマンス、実際の時間に依存した実践を通じて、アートに再導入された。
    • Cindy Sherman(シンディ・シャーマン)(1954-)が自らの身体と“姿”に作用させる変形は、見る者に不快な気分をもたらす。それは大きくてうろたえさせるチバクロームの中で、強調され記録されている。彼女は、アートは現実をもっと現実的にすることが可能であり、そうしている、と考えているようである。このことは、私たちの身体に関して私たちを苛立たせるハイパー・リアリズムに到達しうる。
    • フランス語のeffacerは、古いフランス語のesfacierに由来し、“顔をこすって消すことを意味する”。ディラー+スコフィディオは、いわゆる美容整形外科もまた、理想的で客観かされた肉体を得るために何とかしようとして、性的な特徴、あるいは身体的な容貌を消すことを目的としている、ということをしばしば引き合いに出す。
  • p. 18.
    • ロボットは産業の工場で生まれ、サイボーグは私たちのように病院で生まれた。その病院の環境は退廃的な(fin de siècle)エレクトロニクスによって管理されていた。
  • p. 19.
    • ヴァーチャル・リアリティーの技術は、知覚と自己受容の器官において、“焦点の消失”の現象を増幅させる。→身体への器具の結合、と同時に身体それ自体からの離脱。新しい限界へと、結合と離脱の2重化した運動を推し進める。
  • p. 20.
    • ヴァーチャル・リアリティーの装置はドルーズ、ガタリによって定義された戦争機械の概念と一致する。→「戦争機械は戦争を対象にするものではない。戦争機械の対象は「平滑空間」というきわめて特異な空間なのであって、その空間を戦争機械が構築し、占拠し、波及させていくわけです。「ノマディズム」とは、こうした戦争機械と平滑空間が結合したものにほかならない。私たちは、戦争機械がどのようにして、またどのような場合に、戦争を対象とするようになるのか、説明しようとつとめているのです(つまり、国家装置が、本来自分のものではないはずの戦争機械を横領するとそうなるわけです)。戦争機械は戦争をめざすよりも、むしろ革命に接近したり、芸術に近づいていくこともできるのです。」*11
    • この種の空間は、知覚へと導き、次に新しい行為などに導く継続的な動力装置-連結-行為によって組織される。結果としての水平的な行為/知覚の連鎖は、物語と結合している。
    • 「ハイテク文化は、こうした二項対立に対して興味深いかたちで挑戦する。人間と機械との関係では、誰が製造し、誰が製造されるのかは明確ではない。暗号(コード)化の実践へと変ずる機械において、何が心で何がからだであるのかも、またさだかではない。我々が公式的言説(たとえば生物学)や日々の実践(たとえば集積回路のホームワーク経済)から感ずる限りにおいては、我々は自らがサイボーグ、混成物(ハイブリッド)、モザイク、キメラであると思う。生物学的な有機体は、生体システムという他の装置同様のコミュニケーション装置となった。我々が公式に理解している機械と生体、技術的なるものと有機的なるものの間には、根本的、存在論的区別はない。リドリー・スコットの映画『ブレード・ランナー』での複製体レーチェルは、サイボーグ文化の恐怖、愛、そして困惑のイメージとして存在している。」(ダナ・ハラウェイ)*12
  • p. 21.
    • 「私たちの周囲の状況の展開を支配していた機械的な近接性の法則、すなわち人類の“外因性”の環境は、電磁気的な近接性の法則に取って代わられている。多かれ少なかれ私たちの身体への侵入に対して、また“内因性"の環境、すなわち私たちの内臓の支配に対して、私たちが受動的に服従する以前には、この電磁気的な近接性はまだ発見されておらず、把握されていない。これらのことは生物工学的なミニチュア化を通じて達成される双方向の離れ業によるものである。すでに、そこかしこで、私たちの社会における際立ったマスコミュニケーション技術が全盛となっている。」(ヴィリリオ)
  • p. 22.
    • 新しいテクノロジーは確実に、生体医学の力を行使している巨大な人口調査のネットワークを通して、肉体と精神の全的支配を行使する手段を提供している。それは最終的には、最も恐ろしい独裁体制よりも専制的である。
    • 「サイボーグは、フーコーのバイオポリティクスの対象とはならない。サイボーグが、ポリティクスを──バイオポリティクスをはるかにしのぐ強力なオペレーションの場──をシミュレートする。」(ダナ・ハラウェイ)*13
  • p. 25.
    • ジョルジュ・ヴィガレロ(Georges Vigarello)(1941-)、補助用具(たとえばLevacher de la Feutrie『Machine for Curing Rakitis』(1772)の反転。→このような用具の適用ベクトルは人間の身体の外部からはもはや作用せず、その反対である。従ってボディービルは、訓練の機械を構成する新しい装置での反復的運動によって成し遂げられる。身体はもはや機械化された圧力に服従せず、代わりとして、異常に専門化されることになるそれらの装置と装置の上で、その強さを発揮する。
    • このアスレチック機械はモダニストの建築のためのインスピレーションの源であるだろう。つまり、家具は身体がそこでその強さを発揮する機械のような“人間工学的”枠組の範疇において、考え出されたのであろう。部屋は人が運動をする屋内体操場の範疇において、考え出されたのであろう。
    • 筋肉増強という全身を飼い馴らすことは、ますます洗練された電子装置をもたらしている。その装置は「さまざまな補綴を形成し、機械を肉体のさまざまな機能の中へと差し込みつつ、……外面、機構、己自身の身体の知覚表象を生じさせる」。
      • コルビュジェ→集合住宅のテラスでボクシングをしている住人が描かれたドローイング。『イムーブル・ヴィラ』(1922)
      • コールハース→モダニストの建築と体操(gymnastics)と運動(athletics)との脱線した関係についての問い。『CASA PALESTRA』(1986)
  • p. 26.
    • Etienne-Jules Marey(エティエンヌ=ジュール・マレー)(1830-1904)の運動における身体の動的な原理の調査は、熱力学に基づいた人間の“労働力(labor-power)という新しい科学を生み出した。“動物機械(animal machine)”の運動を図式化し表現するため、彼はこれらの運動を記録するための写真装置を発明した。この映画的な加速装置はそれ自体、補綴のように見なされた。それは視覚器官とモーターを結びつけている。
  • p. 27.
    • ディラー+スコフィディオの『スローハウス』
      • モーター(自動車)と視覚の関連。
      • マレーの“動物的運動”を静止した抽象的イメージに分解することに似て、スローハウスはニューヨークからロングアイランドの入り江の(商品化された)眺めへの最後のスローダウン。
      • 窓(眺望)→ヴィリリオが述べた三つの窓のうちの二つとの関連において、それ自体分解され、組み直される。その二つとは伝統的な窓とヴィデオの画面である。
        • ヴィリリオが述べた三つの窓*14
          1. 第一の窓:ドア窓(door-window)。ドアがなければ建物は存在しない。当然のこととして、もしドアがなければ、そのときそれは建築ではなく、人間の住居ではない。
          2. 第二の窓:窓(window)。そこから誰も入ってこない。そこから入ってくるのは抽象的なものである。日光や直接的な光景である。
          3. 第三の窓:第二の窓は最初は小さかったが、大きくなっていった。それはベイウィンドウになり、文字どうりのウィンドウ・スクリーンになった。そして乗物の一部になった。この時点で第三の窓は現われた。ラジオや新聞みたいな媒体のようには機能しないが、建築的な要素として機能する。位置が変えられる場合には、それはポータブル・ウィンドウである。そしてそれは都市の、決定的末期的な都市の組織の一部となった。→建物の窓はスクリーン・ウィンドウ+電子的な窓。
      • 『スローハウス』は走行光学(dromoscopic)とヴィデオ撮影(videograpic)の効果の結合を、それらを混ぜることなく組織している。新しい技術の潜在性(乗り物、シミュレーション技術)は「加速された目眩から生じる体感を試す可能性」(Veronique Nahoum-Grappe)を増大さる。『スローハウス』が加速の目眩に加えて示しているものとは、減速の僅かな目眩、スローモーションのである。
    • マレーの作品において、身体は空間-時間の連続体の科学的な分解についての焦点であった。また身体は緩やかだが潜在的な空間の飼い馴らし(domestication)のプロセスを通じての、建築の変形の焦点であった。このプロセスはSigfried Giedion(ジークフリード・ギーディオン)(1888-1968)によってまず認識された*15。その他↓
  • p. 28.
    • マレーの“幾何学的動体記録連続写真”→身体のエネルギー、たぶんもっと正確には、身体の純粋なエネルギーのメタファーがフレーム化されている。
    • 身体の労働力は書き物になり、ノーテーションのシステムになった。→建築作品において不足していた、不足しているものの供給源として作用した。
  • p. 29.
    • J.G.Ballard(J・G・バラード)(1930-2009)→「サイエンスとテクノロジーは我々の周囲で増殖し続け、増大するにしたがって、話し考える言語を支配しつつある。科学の言葉を使うか、でなければ黙ってしまうしかない。」*16
  • pp. 29-30.
    • 生物-心理-解剖学的な科学は、進化論によって強化されるが、本当の“バイオクラシー(biocracy)”*17のための基礎を与え、そして諸器官と諸機能の両方の詳細な分析を通して作動する身体についてのビジョンを生み出してきた。建築における機能主義とそれから有機体論はこの発展によって勢いづけられた。それは直接的ではなく、類似物(analogon)としての思考の浸透のプロセスを通じてであった。想像力に富んだ歴史的時期においては、少なくとも一つの特権的な類似物(analogon)が前景化するようになる。19世紀は化学と生物学。20世紀はコンピュータ技術と分子生物学。
  • p. 30.
    • コルビュジェにとって、まだobjets-typesは身体の諸器官と建物の諸部分とのありうる同等性のケースであった。補綴、器官移植などが肉体と装置を結合しているハイブリッドな存在を生み出した時に、この有機主義、この生物学的機能主義に何が起こったのだろうか。この場合、誰が身体、あるいは装置にパラサイトしているのだろうか。ディラー+スコッフィディオのプロジェクトと理論化の作業は中世初期からモダニズムにかけて建築のメタファーと表象の基礎を以前形づくっていたものの消去を私たちは目撃しているということを明らかにする。
  • p. 32.
    • 器官なき身体。それぞれの器官の特異性に依存しない身体の考え方。器官なき身体は、身体を関連、情動、欲望を通じて認められる、その外部性において、他の身体との関連性において考える。
    • 有機体。内的な機能的論理によって組織化された固定化したヒエラルキー。有機体は、身体を特異性そのものに属する自立的な実体として、その内部性において考える。
  • p. 33.
    • 「一切が同時に作動するが、しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、食い違いや分断が併発する只中にいてである。つまり、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがないよせ集めの総和の中においてである。……われわれは、もろもろの部分対象、煉瓦、残余の時代に生きているのだ。われわれはもはや真の意味では断片といえないような偽りの断片を信じない。」(ドゥルーズ+ガタリ)*18
  • p. 34.
    • 断片からなる作品は完全な作品ではないが、しかしその代わりに、他の効力のある様態へと導く。外破であると同時に内破であり、それは分裂の経験、分離と不連続の経験へと導く。同様に、芸術と建築における“コンポジション”と“タイプ”という考えの決定的な放棄へと導く。このような放棄は、ジョン・ヘイダックの建築作品の中に既に前兆がある。
    • 古典の時代から、“コンポジション”はプロジェクトの関してヒューリスティクスを押し付ける。それは全体の光景から始まり諸部分、“ディテール”(配分的、構造的、装飾的)へと導く。現在、(建築的)実践は構成ではなく、むしろ並置する組織化のモードへと向かっている。それは互いに残りものの外部との関係の条件を与える。この外部性、この距離はあらゆる意味の主要なものと見なされている。
  • p. 35.
    • これらの外部化する戦術は、ディラー+スコフィディオの作品において機能しているが、原型的な姿としての人間の身体に関する美学的な概念に疑問を呈する。伝統的な芸術様態、それに従って、芸術作品の表面が、内面にあらかじめ存在している枠組みの外部への反映として、強固な内面の“構造”の外部化された反映として知覚され理解されるが、ロバート・スミッソン、ブルース・ナウマン、リチャード・セラは、この芸術様態に既に疑問を持っていた。

      GG Lab. by GGAO

*1 ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』 国文社 1987
*2 Ibid.
*3 参考:ミッシェル・カルージュ『独身者の機械──未来のイヴ、さえも…』1991 ありな書房
*4 ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
*5 Ibid.
*6 Ibid.
*7 参考:ハイデガー『存在と時間(上)』岩波文庫1960
*8 メルロー・ポンティ『知覚の現象学1』みすず書房 1967
*9 Drew Leder『The Absent Body』
*10 Ibid.
*11 ジル・ドゥルーズ『記号と事件──1972-1990年の対話』 河出書房新社 1992
*12 ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」『猿と女とサイボーグ』 青土社 2000
*13 Ibid.
*14 Paul Virilio『The Third Window: an Interview with Paul Virilio』
*15 ギーディオン『機械化の文化史―ものいわぬものの歴史』鹿島出版会 1977
*16 J・G・バラード『クラッシュ』 ペヨトル工房 1992
*17 身体が生物科学に基づく近代医療の管理下におかれる状況。
*18 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』 河出書房新社 1986

添付ファイル: fileFlesh.jpg 46件 [詳細] fileComucopia.jpg 57件 [詳細] fileBride in White Gazar.jpg 60件 [詳細] fileCASA PALESTRA(1986).jpg 67件 [詳細] fileFinger-Gloves.jpg 67件 [詳細] fileImmeuble_Villas(1922).jpg 54件 [詳細] fileInasmuch_As_It_Is_Always_Already_Taking_Place.jpg 63件 [詳細] fileMachine_for_Curing_Rakitis(1772).jpg 43件 [詳細] fileOverflowing-blood-machine.jpg 72件 [詳細] filePencil Mask.jpg 47件 [詳細]

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Last-modified: 2017-04-07 (金) 23:28:42