The New Landscapeのメモ †
バート・ローツマ(Bart Lootsma) 著
(Mutations
Actar (2001/3/15)
ISBN-13:978-8495273512
pp. 460-471.所収)
- p. 462.
- メディアは抜本的にパブリックとプライベート空間の間の区別を破壊している。
- 孤独と他人の継続的な意識の両方という矛盾した経験。
- 接触しようとする試み。必死にアイデンティティーを明かそうとする試み。
- 誰でも私たちに、いつでも連絡できるように、私たちは携帯電話を持っている。ラジオやテレビはメディアとして機能し、水晶球のように機能する。
- p. 463.
- ここで私たちはMarcel Duchamp(マルセル・デュシャン)(1887-1968)の『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の世界に入る。→大ガラスは、都市生活における新しい結合を描写し、見出し、提示するのに利用されてきた。
- 欲望は“独身機械”の燃料である。Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)(1925-1995)とFélix Guattari(フェリックス・ガタリ)(1930-1992)は“独身機械”の概念と意味を拡張した。
- ドゥルーズ+ガタリは、分裂者を両親と問題のある者ではなく、資本主義社会と問題がある者と考えた。
- 分裂者にとって、全ては一つのものから他のものへと変化するプロセスからなる。彼らは機械のようにあらゆる種類のプロセスと連結する。また、これら終わりなき欲望の鎖に反対するそのとき、機械は“器官なき身体”であり、いかなるものとの連結も生み出すことができない。独身機械は、引力と斥力のプロセスにおける、2つの極端な分裂者の行動を繋ぐモデルである。
- 新しい都市ランドスケープにおける、個々の住人の状態と行動を描くのに適しているのは、特にこの独身機械の拡張された解釈であるようだ。
- たとえば『錯乱のニューヨーク』においてレム・コールハースは次のように言う。
- 「心地良い海の微風と全景を見渡す眺望によって、二十のフロアは会員にくつろぎの空間を提供します。家庭の煩わしさから解放され、贅沢なリビングで最新の設備を満喫する余裕のある男性にとって、ダウンタウン・クラブは理想の家となることでしょう……。」そして、真の都会人にとって独身こそが唯一望ましい身分であると堂々と示唆している。
ダウンタウン・アスレチック・クラブは、メトロポリスの独身者のための機械であり、彼らの究極の「ピーク」コンディションを、生産的な結婚よりもさらに高い段階に引き上げるのである。*1
- p. 464.
- Lars Lerup(ラース・レラップ)も大ガラスを一種の潜在的な図式として、ヒューストンのパラ文学的な記述のために使っている。→『Stim & Dross:Rethinking the Metropolis』
- 親密な部屋の中から、孤立した個人が窓を通して都市の拡がるランドスケープを見ている。この部屋は中心であるが、中心ではない。最も重要なことは、それが都市の中心ではなく、権力の中心でもない。彼は圧倒されている。Caspar David Friedrich(カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ)(1774-1840)の絵画の一枚のようである。
- ヒューストンの都市景観を大ガラスの部分に当てはめている。
- p. 465.
- レラップにとって、“メトロポリスの再考(rethinking Metropolis)”は、まず視点を変え、そして新しいヴォキャブラリーを見つけ出すことを意味した。彼は“stim”と“dross”という用語を導入した。けれども、彼の新しいランドスケープ視点は主に自動車からの経験によって占められている。
- Stim→Stimulationに由来している。ウィリアム・ギブスンが『モナリザ・オーヴァドライヴ』で使用している。また『ニューロマンサー』では“simstim*2”として使用しており、こちらはコンピュータ・テクノロジーとの結びつきが大きく、いっそう人工的である。しかし、レラップはこの用語がさらに、Stimme(声)とStimmung(雰囲気)の意味を含んでいると言っている。
- Dross→廃棄物、あるいは溶融精錬時の溶けた金属の表面に形成される不純物。しかしそれはまた、貴重品あるいは価値とは反対の役に立たないものでもある、屑。
- これらの用語を用いて、レラップは今世界中に展開されている新しい都市ランドスケープの美しい説明をしている。このランドスケープの表面の汚れた皮膜と一体である、泡立つ熱い金属としての生活。このランドスケープは何時しか、外へ向かって皮膜を破る。レラップはメディアによって形成されるものを見落としているように思えるが、しかし、それはこのドロスの皮膜の上に浮遊している気体として、容易に理解できる。
- ドロスは「空きチャンネルに合わせられたテレビのよう」(ギブスン)であり、コールハースの言う“ジェネリック・シティ”、あるいは“ビッグネス”の究極の経験に近い。また、Guy Debord(ギー・ドゥボール)(1931-1994)の『スペクタクル社会』とも響きあう。
- ジェネリック・シティ、ドロス、ビッグネス、あるいはプランクトン(コールハースが時々言及する)→非-場所の終わりなき追加。それは住人にとって価値があるスティムである。彼らはそこではないどこかにいて、そして彼らは、利用できるあらゆる電子的手段によって、彼らが興味のある特定の情報を拾い上げながら、自らをスキャンしなければならない。
- p. 466.
- レラップのヒューストン→スティムは巨大な技術的インフラストラクチャ、エアコン、冷却装置によって冷やされたクール・スポットである。そこで人々は出会う。それはバー、レストラン、ショッピングモール、きれいな会場での美術展かもしれない。しかし、集まりが終わり照明が消されるとき、スティムは再びドロスになる。
- West8のAdriaan Geuze(アードリアーン・グーズ)→都市と自然の間の違いはもはや実質的には存在しない。新しい都市は「村落、都心、郊外、工業地帯、港、空港、森、湖、浜辺、保護地区、そして単一栽培のハイテク技術農業地帯である。」(グーズ)
- 都市は広げられたランドスケープになっている。都市の住人もまた変化しており、彼は、もはやすぐそばの環境(surroundings)には制限されない。グーズの考えでは、都市の住人は状況の犠牲者ではなく、積極的な方法で状況に自らを適応させてゆく。
- 「都市の住人は自信たっぷりの探求する個人になった。彼は極めて移動性(mobile)があり、テクノロジーを手に入れ、さまざまなメディアを利用している。環境は(surroundings)は必ずしも、都市の住人の想像上の欲望に適応させられているとは限らない。彼の環境に自らを適応させるのは彼である。都市住人にとって、家もはや個人的な世界ではない。彼は頻繁に自分の見せかけと環境を変え、……」(グーズ)
- p. 467.
- 多様な密度と文化の際立った差異と一体となったランドスケープ。これは最近まで私たちが周辺と見なす傾向にあったものであるが、そのうちそこは広大になり、このランドスケープにおいて、古い街の中心は他の同じ価値のもののなかのアクセントに過ぎなくなった。
- グーズによればこの無視されているが活気のあるランドスケープは、ヨーロッパの未来の都市のための種を手にしている。そこでは住人はもはや、幻影や間に合わせのものを必要とせず、エキゾチックな文化を定義する。彼らの行動は、もはや前もってプログラムできず、前もってプログラムできない。というのは、それは無秩序、探検、そして自己表現に基づいているからである。→レラップのヒューストンの記述に近い。
- 都市住人がこのような方法で都市を利用できるようにしたのは、増大する個人のモビリティではない。彼らは、選択したメディアからの情報によってどこに行くべきかを知っているだけである。興味をおこさせ、欲望を生み出すのはメディアである。都市住人の分裂者的行動が、見掛けほどでたらめで自暴自棄ではないということと、実際には、新しい関係とコミュニティーは日々形成されているということを理解するための決定的なこととは、互いに折り重なっているさまざまなメディアの存在である。
- p 469.
- メトロポリスは心的な状態であり、生き方であり、コミュニケーションの新しいかたちである。コミュニティーはさまざまなコミュニティーから形成される。メトロポリスにおいて、新しいコミュニティーは誰も予測できない場所に現れる。これら新しいコミュニティーのいくつかは、物理的な場所さえも必要としてはいない(インターネット上のヴァーチャル・コミュニティー)。
- p. 470.
- 「人間の歴史の中で最も目眩がする都市の変化に特徴づけられる世紀の終わりに、アカデミックな読物(バンハムとコールハースのような書き手は別として)と都市のプロジェクト(特に戦後のヒューストンのような都市)は、歴史的に時代遅れのヨーロッパの中心都市の筋違いの亡霊に取り憑かれたままである。……歩行者、広場、街路、周辺区画のヘゲモニーは疑われなければならない。なぜならば、それらが具体化する価値がもはや妥当ではないためではなく、むしろそれらが、現代の人口密集地とその外側の本質についての根本的な一連の誤解に満たされているためである。このことは全体の誤った理解へと導く。より辛辣にいうと、……都市とその戦後の拡大の最も洗練された読物(時折は建物)でさえ、取り憑かれ誇大妄想的……であろうと率直にブルジョアの歩行者のためのノスタルジーであろうと……、それは多かれ少なかれ隠された確信を前提としている。もしこの確信が実現されるならば、この確信は私たちにコミュニティーをもたらすだろう──あるいはそれ以上に、ヨーロッパの都市のアメリカ版へと引き戻すであろう。もう都市は、絶えずメトロポリスとそれが与える全てものによって超えられている。」(レラップ)
- 第二次世界大戦後のヨーロッパ社会において、最も決定的な変化とは大衆(mass)の消失である。大衆は通りにかつて生き、そして、集団として振舞ことができた全体のうちに、突然自らを組織できた。可動性が増したメディアと都市のスプロール現象は、このプロセスにおいて決定的な役割を演じた。群集が一緒に行く場所である、今建てられている唯一のモニュメントとはスポーツスタジアムである。スタジアムを建てる可能性でさえ、世界中に放送されるオリンピックあるいはワールドカップサッカーのようなマス・メディアのスペクタクルに依存している。
- p. 471.
- 公的空間の問題は、建築あるいは空っぽの空間それ自体についての問題ではない。それが完全に、この空っぽの空間でまさに起こっているだろうという不明瞭な何かのままである、ということが問題である、または、であった。それゆえ、もし特定の公的空間の特定の建築に回帰するならば、コミュニティーの古い意味が復活するという希望は幻想である。社会は常に建築よりも強い。
- 古典的な建築の専門分野は、この都市ランドスケープとその住民の行動を理解し、計画し、コントロールするには、もはや十分ではない。私たちは新しいメディアの影響を理解する必要がある。それらは私たちの欲望の引き金を引く。それらは公的空間の重要な部分である。